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コラム:「一枚の菜っ葉」

一茎菜(いっきょうさい)を拈(と)りて
丈六身(じょうろくしん)と作(な)す
これは、道元禅師の『典座教訓(てんぞきょうくん)』の中の言葉です。
『典座教訓』の、この言葉が見える一段は次の通りです。
「典座(=料理番)が、心をはげましてつとめる、道を求める心のはたらきの様子というものは、昔のすぐれた徳のある人たちが、たとえば三銭のお金でごく普通の料理を作ったとしても、いま私は、同じ三銭のお金でもすばらしい料理を作ってみせるというようなものである。このようなことをするのは大変難しいことである。…一本の野菜を手に取り、一丈六尺(=360cm)の仏の身として用い、じゅうぶんに活用し、また一丈六尺の仏身を一本の野菜にこめて、これを大切に用いることができるのは、これこそ本当の神通力というものであり、また典座の自由自在なはたらきでもあり、仏としての仕事である教化でもあり、またすべての人々を利益(=たすける)することでもある」(講談社学術文庫『典座教訓・赴粥飯法』p.51~52)。
飽食の時代と言われる昨今、一日に大変な量の食材が生産され、また確実にその何割かが残り物として廃棄されています。
また、ファーストフード店やコンビニエンスストアでは、ほんの少し賞味期限が過ぎたものでもゴミとして捨て去られていきます。その一方で、環境保護が声高に叫ばれてもいます。何ともおかしなことです。
そんな時代ですから、家庭での料理も、食材は粗雑に扱われているのではないでしょうか?皆が皆、見かけが綺麗で高級な食材を口にしたがる時代です。一見綺麗に見える野菜でも、ちょっと汚れた所を見付ければ、すぐにゴミ箱行きになっていることでしょう。
ここで引用した、道元禅師の『典座教訓』の中に、次のようにも言われています。
「たとえ粗末な菜っ葉を用いてお汁物やおかずを作るときでも、これを嫌がったり、いい加減に扱ったりする心を起こしてはならないし、また、たとえ牛乳入りのような上等な料理を作る場合でも、それに引きずられて喜んだり、浮かれはずんだりする心を起こしてはならないといわれている。…一見粗末な品物を扱うことがあろうとも、決して怠りなまけるような心を起こすことなく、また、上等な材料を用いて料理を作ることがあったとしても、一層おいしい料理を作るようにつとめるのである。決して品物のよしあしに引きずられて、それに対する自分の心を変えたり、人によって言葉遣いを改めたりしてはならない」(『同上書』p.47)。
資本主義の社会では、お金が大変な価値を持ちます。お金があれば、どんなものでも買えることでしょう。食材で買えないものは無いほどです。しかし、それで本当に良いのでしょうか?何か大切なものを失っていないでしょうか?
近年、学校給食で、子供に「いただきます」と言わせないでくれと抗議する親がいるそうです。理由は、お金を払っているのだから給食を貰うのは当然の権利であり、「いただく」訳ではないからだそうです。
何とも情けないことです。
小説家の水上勉氏は、『土を喰う日々』(以前に「おすすめ書籍」の中で紹介しております)という書の中で、次のように言っています。水上氏は、少年時代、禅僧の卵として禅寺の中で暮らしておりました。それ故、禅に造詣が深い。
「道元さんという方はユニークな人だと思う。『典座教訓』は、このように身につまされて読まれるのだが、ここで一日に三回、あるいは二回はどうしても喰わねばならぬ厄介なぼくらのこの行事、つまり喰うことについての調理の時間は、じつはその人の全生活がかかっている一大事だといわれている気がするのである。
大げさな禅師よ、という人がいるかもしれない。たしかに、ぼくもそのように思わぬこともないのだが、しかし、そう思う時は、食事というものを、人にあずけた時に発していないか。つまり、人につくってもらい、人にさしだしてもらう食事になれてきたために、心をつくしてつくる時間に、内面におきる大事の思想について無縁となった気配が濃いのである」。
先の親は、お金でしか物事を考えられない心の貧しい人なのでしょう。きっと、その方の家の食卓には、スーパーでの出来合いのものが「豪勢に」並んでいるに違いありません。そんな環境で育てられた子供が、果たして正しく成長するでしょうか?
また、水上氏は、自らが育てた大根が、やせ細り、曲がった粗末なものだったことを通して次のように話しています。
「ぼくの今年の軽井沢の大根ときたら、出来がわるかったのだ。忙しかったために、よく畝を耕さなかったせいもあるが、天候のかげんもあって野菜も面喰らったのだろう。…ぬいてみると、肩のあたりはそうでもないがひょろりとやせて、尻尾はトカゲのそれのように細い。
〈ダメだなあ。春から楽しみにしていたのに〉とぼくは客にいった。〈これじゃ、おろしぐらいにしかなりませんね〉と客もいう。なるほど、輪切りにして、油揚げと煮てみるのだが、どこやらシコリとにがみがのこる。芯にスもある。これでは客に出せぬ。そこでいわれたとおり、おろし金ですってみる。
なんと辛かったことよ。しかし、その辛さは独得の味だった。めしにのせると甘くなって舌をひたした。昔の大根だった。いや、ぼくらがわすれてしまった大根の味なのだった。いまの大根は、なりは立派だが水っぽくてそっけない。こころみに、それをおろして見給え。どこやら薄味の、間の抜けたところがないか。ぼくは、一見してはなはだ出来のわるい姿とみた大根が、しっかりと、辛さだけを、独自に固守していたことに感動した。都会人にすれば、姿もわるいから、捨ててしまうぐらいのものだろう。もっとも、お百姓が、こんな大根を荷出ししていては、市場も買うまい。規格にはずれる駄物大根に、本当の味がのこっていたと知るのはことしのことだが、この時も、前記の『典座教訓』を思った。まことに〈一茎草を拈じて宝王刹を建て、一微塵に入って大法輪を転ぜよ〉である。出来のわるい大根を、わらう資格はぼくらにはない。尊重して生かせば、食膳の隅で、ぴかりと光る役割がある。それを引き出すのが料理というものか」。
一見、使い物にならないような野菜でも、すこし工夫すれば大変に価値のあるものとなります。野菜でさえそうです。たとえば人間ではどうでしょうか?
日常の営為たる料理のことといって軽んじてはいけません。些細なことから、とても多くのことを学ぶことができるのです。
投稿者 sougen : 2008年04月20日 16:10
