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コラム:「学ぶことの意味」

「心を直さぬ学問して 何の詮かある」
これは叡尊(えいぞん)の『聴聞集』の中の言葉です。
叡尊(1201~1290)は、鎌倉時代中期に活躍した律宗の僧です。戒律を復興し、奈良の西大寺を中興し、殺生禁断・慈善救済・土木事業などを行って、被差別者から天皇にいたるまでの幅広い人びとから、篤い帰依を受けた仏教者です。
さて、叡尊の上記の言葉について考えてみましょう。
叡尊は、上記のように「心を正さない学問に、いったいどんな価値があるものか」と問いかけます。
では、そもそも「学問」とは一体何でしょうか?
一般に、学問とは「知識を得ること」と解されています。事実、学校では、九九を覚え、公式を覚え、漢字を覚え、単語を覚え、年号を覚えるなど、知識を増やすことを中心に学びます。
しかし最近では、こうした「知識を増やす」教育を「詰め込み」と批判し、「ゆとり教育」を実施しましたが、かえって子供達の学力の低下を招いたとして、現在では見直しの方向へ向かっています。
さて、学問の定義は様々だと思います。知識を増やすことを否定して、ゆとり教育が実施されましたが、知識を増やすことも必要なことです。それは、知識が増えることで様々なことを知るようになり、またそれによって考える力を増進させることにもつながるからです。そもそも単語を知らなければ英会話もできませんし、漢字を知らなければ本も読めません。
しかし、本当に学問をする「目的」とは何でしょうか?良い学校に入ることでしょうか?良い会社に入ることでしょうか?
確かにそれらも立派な目的ではあります。良い学校では、良い仲間や教師に出会えます。良い会社に入れば、社会的にも認められ、生活もそれなりに余裕のあるものとなるでしょう。
一方で、良い大学を出て、良い会社に入った人が、悪事に手を染めたり、ストレスで精神的な病に罹ることも近年、珍しくはありません。一般に良い成績を収め、周囲から「良い子」に見られていた子供が、その心の中に闇を抱えていて、驚くような事件を引き起こすことも、最近目だつ傾向です。彼らにとって、学問とは一体、何だったのでしょう?
叡尊は、学問をする目的を、明確に「心を直すこと」と定義します。叡尊は、学問をする人の心を問題とするのです。
人は、知識を得ることで、より人格が陶冶されなければなりません。正しく生きる道を学ばなければなりません。漫然と良い学校や良い会社に入ることが人の幸福につながらないことは言うまでもありません。人生の目的は他にあると言えましょう。
中国の宋代の禅者の大慧宗杲(だいえそうこう)は次のように言っています。
「高級役人で、たくさんの本を読んでいる(=知識を詰め込んでいる)人は迷いが多く、あまり本を読んでいない(=知識を詰め込んでいない)人は迷いが少ない。役人として出世しない人はエゴが弱く、出世する人はエゴが強いものだ。俺は頭が良いんだと自分で言うが、わずかでも利害がかかわることとなると、頭の良さはどこかへ行ってしまい、ふだん読んでいる本の一字も役に立たない。それは学問の習いはじめから間違っていて、富貴を勝ち取ろうとするばかりだからなのだ。〔しかも、そのうちで〕富貴を〔現実に〕手に入れる人は一体どれ程いることか。ぜひ志向をクルリとかえて、自分の脚下(=心)に向けなさい」(『大慧書』「呂郎中に答える〔手紙〕」)。
大慧の指摘は明確です。頭が良いと自負する人ほど、利害得失にかかわることに出くわすと、自分を見失うものなのだと、そして、その原因は、学問を志した態度に問題があるのだと言っているのです。
人間として身に付けねばならない優しさや正しさなど、様々なことを経験し、学んでいくことが、学問の本当の姿ではないでしょうか?
知識偏重の教育体制を反省して施行された「ゆとり教育」も、本来はそちらの方向を目指したのでしょう。しかし「よい学校に入る」だけを目的とする学問への姿勢が改まらないまま施行されたために、「ゆとり教育」は見直しを余儀なくされたのではないでしょうか?
今こそ、心を直すという学問本来の在り方に立ち返る必要があるのではないでしょうか?
投稿者 sougen : 2008年04月13日 14:33
