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コラム:「我を生む者は父母、我を成す者は朋友」

これは唐代の禅者、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉です。

百丈懐海は、「清規」(しんぎ)と呼ばれる、修行僧達の生活規律を定めた禅者として有名です。

また「一日作ささざれば一日食らわず」という言葉を残したことでも有名です。

百丈和尚は、老齢になっても一日たりとも労働をやめようとはしませんでした。そのような百丈和尚の身体を心配した弟子達は、こっそりと百丈和尚の仕事道具を隠してしまいました。流石の百丈和尚も、道具が無ければ労働は出来まいと、弟子達はそう考えたのでしょう。なんと師匠思いの弟子達でしょうか。

しかし弟子達の意に反して、百丈和尚は食事を取らなくなりました。そこで口にしたのが、上記の言葉です。

禅は日常を大変に重視します。日常の中に悟りに到る契機が転がっていると考えるのです。いえ、日常生活を正しく生きることが、そのまま悟りの姿に他ならないとまで言います。

百丈和尚は、身を以て弟子達にそのことを伝えようとしたのでしょう。

さて、今週の言葉です。

この言葉は、百丈和尚が、いつまで経っても大成しない一人の弟子が、友人の誘いで別の師匠の下へ移ろうかどうかと迷っていた時に発した言葉です。そして、この言葉で弟子は友人の誘いに従うことを決意し、やがてひとかどの人物となって行くのです。

この弟子は、百丈和尚とは残念ながら縁が無かったのでしょう。師と弟子との間にも相性というものがあるのです。しかし、それを修行の途中で互いに認めることは、なかなかに困難です。しかし、百丈和尚は、この弟子が自分とは縁が無いことを悟って、別の師の元に送り出したのです。なんと寛大なことでしょう。

自らをこの世に生みだしてくれたのは両親です。そして、一定の年齢まで暖かく庇護して育ててくれるのも両親でしょう。これは修行上でも同じことです。この場合、親とは師匠のことです。

しかし、ある一定の年齢になれば、子供や弟子は、親や師の元から離れねばなりません。いつまでも親や師の元にいれば、甘えも生じるでしょうし、いつまで経っても独り立ちできません。一方、親や師の側も、いくら可愛い子供や弟子であっても、一定の時期がくれば手放せばなりません。それがむしろ愛情なのです。親は親で、師は師で独り立ちせねばならないのです。

この言葉は、むしろ独り立ちした、あるいは独り立ちしようとしている人へ向けた言葉と言えるでしょう。

ここでいう「朋友」とは、具体的には修行上の仲間のことです。むしろライバルと言っていいような仲間です。

どんな道に進んでも、友人はできます。しかし、本当に自らを磨いてくれる友人とは、傷をなめ合うような仲間ではなく、むしろお互いに切磋琢磨し合うライバルと呼ぶべき仲間でしょう。

そんな友人は、優しい言葉だけではなく、時には忌憚なく厳しい言葉も浴びせかけることでしょう。しかし、それが本当の思いやりなのです。

4月は新しい出会いの多い時期です。たくさんの人との出会いに感謝すると共に、その中から、是非とも一生涯つき合って行くことの出来るような、そんな友人を探し出しましょう。

しかし、それには、まずは自分が懸命に努力することが必要です。いい加減な生き方をしていれば、いい加減な仲間しか周囲には集まってこないでしょう。精一杯努力したり、精一杯悩んだりする中で、本当の友人は見つかるものなのです。

友人は、何ものにも代え難い、人生の宝なのですから。

投稿者 sougen : 2008年04月06日 17:23

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