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2008年03月30日
コラム:「初発心の時、便ち正覚を成ず」

これは『華厳経』の中の言葉です。
仏道修行にあって、初めて入門することを決意したその時に、すでにそのゴールであるお悟りは成就するのだ、という意味です。初心の大切さを説いた言葉です。
さて、私が禅僧になるための修行を積むために修行道場に入門したのは、18年前の、ちょうど今頃のことでした。
禅の道場で修行するためには、厳しい入門の儀式をくぐらねばなりません。まず、早朝、道場の玄関に入ってその玄関先で頭を下げ、「たの~みま~しょ~う」と大声で入門を請います。しかし、不安な気持ちが先にたって、声は震え、なかなか肚から声が出ません。すると、たちまち兄弟子から「声が小さい!」と怒鳴られます。その声の大きさに、こちらは身のすくむ思いです。
今度は兄弟子に負けまいと更に大きな声で「たの~みま~しょ~う」と声をかけ直します。しかし、中には兄弟子の一喝に圧倒されて、全く声が出なくなる者もいます。声を出しても、肝を冷やして更に声が小さくなる者もいます。すると兄弟子に何度も怒鳴られ、その度にやり直しをさせられます。
幸い、私の場合は2度目で許されました。許されると、奥から「ど~れ~」の大声と共に一人の兄弟子が現れて入門の願書を受け取り、道場の最古参の者にその願書を取り次ぎます。
しかし、これで入門が許されるかと言えばそうではありません。最古参の者は、入門者に対して、「この道場は今、修行僧で一杯だから、悪いことは言わないから他所に行きなさい」と、にべもなく突き放します。けれど、それでへこたれてはいけません。入門を許されるまで、玄関先で頭を下げ続けなければならないのです。
私が修行したのは、京都・嵐山の天龍寺です。3月~4月初旬の嵐山は、日中はそれなりに暖かいものの、朝方や日が暮れた後などはまだまだ非常に冷たい。
冷たい風が衣の裾から入って来て、身体がガタガタと震えます。また時間が経つにつれ、当然のことながら、同じ姿勢を維持することがつらくなります。しかし、それでも頭を下げ続けねばならないのです。
時折、兄弟子がやって来て、「まだこんな所にいたのか!修行の邪魔になるから出て行け!」と大声で怒鳴り、襟首を引っつかんで玄関の外に追い出します。しかし、それは入門を請う者にとって、わずかな休息でもあります。休息が済むと再び同じ姿勢で入門を請い続けます。これが2日間続くのです。
禅の道場では、この儀礼のことを「庭詰め」と言います。
こうして2日間の玄関先での庭詰めが終わると、今度は個室での3日間の坐禅です。坐禅など経験したことの無い者にとって、いきなりのまる一日の坐禅は、まさに苦痛です。また、個室だからと言って手を抜くことはできません。いつ兄弟子がやって来て、雷を落とすかわからないからです。そして、「何もしない」ということが、こんなにも辛いのかと実感する日々でもあります。
こうして5日間の入門儀礼を通過して、初めて修行僧の一員になるのです。
当然のことながら、これは長い修行のたった5日間でしかありません。私の場合、道場に5年間在籍していましたから、1826日分の5日です。
しかし今、思い返してみると、あの5日間の如何に濃密であったことか。全てのことが新しく、全てのことが戸惑いでもあったあの5日間。とても冷たく、けれどその中に少し温みが感じられたあの空気。道場に入門した時期がやって来ると、あの時の「空気」の感覚が、今でも鮮明に蘇ります。一度、着物を脱いでしまえば自分で着直すこともままならない程に不出来な「禅僧のタマゴ」でしたが、誰もが初めはそんなものなのでしょう。
私の禅僧としての原点はあの5日間にありました。
今でも同時に入門をした修行仲間は、我々が入門をしたその日に電話をしてきます。そして、お互いに初心を思い返します。
どんな世界に跳び込むにせよ、初めはどんなことも新鮮だと感じる一方、辛いことも多いことでしょう。しかし、それを通過して初めて一人前になっていくのです。そして、そこで感じたことが、生涯の礎となるのです。
さあ、今週から4月です。新たな一歩を踏み出す方も多いことでしょう。その一歩が、やがてはゴールへと導くのです。初心を決して忘れることなく頑張って下さい。
2008年03月16日
コラム:今週のことば
身の咎(とが)を己(おの)が心に
知られては
罪のむくいを
いかがのがれん
(自分の過ちを自分の心に知られた以上、その罪の報いからどのようにして逃れることができようか?)
この言葉は、至道無難(しどうぶなん・1603~1676)禅師の言葉です。
誰も見ていないからと、自分の過ちをごまかした経験はありませんか?
例えば、煙草やゴミを町中に捨てたことはありませんか?他人の物を黙って拝借したことはありませんか?
誰かが見ていれば多少やましさもあるでしょうが、誰も見ていなければ、人はつい過ちを犯しがちです。
しかし、いつも自分の行動を見ている人がいます。それはあなた自身です。他人はごまかせても、自分をごまかすことはできません。
中国の後漢の楊振という人が贈賄の申し出を固辞し、「天知る、地知る、子知る、我知る(たとえ誰も見ていなくとも、天と地は知っているし、私も、そして贈賄をするあなたもこのことを知っているではないか)」と言いました。
「この程度なら…」、人は軽い過ちなら自分でさえもごまかそうとします。しかし、軽い過ちをくり返すことによって、より大きな過ちに対しても無神経になっていくものです。過ちに軽い重いは関係ありません。自分の心にとっては、みな等しく「罪」に他ならないのです。
人は、自分の中の「正直な心」に従って生きていくべきです。
おすすめ書籍:奈良康明・佐々木宏幹編『禅といま』

見方を変える、生きるための「禅」。
己を磨き、「いま・ここ」を目指す禅。
禅から日常を見つめ直したときに、浮かびあがるものとは。
禅に関わりの深い7人がさまざまな角度から、現代社会と禅のあり方を語る、珠玉の講演録。
春秋社、定価1,800円
「…いったい禅とは何でしょうか。私は禅というのは、いつでもどこでも変わらない真実をふまえつつ〈生きていく道〉だと思っています。真実というのは、仏教の言葉で言い直せば、〈法〉とか〈仏法〉となります。真実とは時代を超え、社会を超えて普遍的なものだからこそ真実です。時代や空間、社会によって異なる真実は、真実ではないのです」(本文より)。
【目次】
はじめに 奈良康明(駒澤大学名誉教授)
序章 天地いっぱいに生きる 青山俊童(曹洞宗・愛知専門尼僧堂堂長、正法寺住職)
第一章 禅の来し方
禅の源流 高崎直道(東京大学名誉教授)
文明の危機と禅 奈良康明
第二章 日本社会と禅
現代と道元禅 山折哲雄(元国際日本文化センター所長)
宗教と現代 佐々木宏幹(駒澤大学名誉教授)
第三章 禅の未来
宗教と癒し 上田紀行(東京工業大学准教授)
般若波羅蜜多 玄侑宗久(芥川賞作家・福聚寺住職)
おわりに 佐々木宏幹
2008年03月09日
コラム:今週の言葉

今日わかれ
明日はあふみ(会う身)と
思へども
量(はか)りがたきは
命なりけり
これは大愚良寛(1758~1831)の言葉です。
今日、「さよなら、またね!」と別れたとしても、明日また無事に会うことができるかの保証など、何処にもありません。
そんなありもしない保証を信じて、人は生きているのです。
命とは、かくもはかないものなのです。
だからこそ、人と人との出会いの有り難さに感謝するべきです。
今のこの一瞬一瞬が、永久の別れになるかもしれません。
後悔のないように、いつも人に感謝し、やさしくありたいものです。
2008年03月02日
コラム:今週の言葉

古人刻苦(こじんこっく)
光明必ず盛大なり
昔、中国に石霜楚圓(せきそうそえん)という方がいました。
石霜は懸命に坐禅修行に励みましたが、どうしても眠気には勝てない。
そんな時、石霜は「古人刻苦、光明必ず盛大なり。我また何人ぞ。生きて世に益なく死して人に知られずんば、理において何の益かあらん(昔の人は皆な刻苦して修行に励んだものだ。しかし刻苦したが故にその成果もまた素晴らしいものであった。自分などどれ程の者であろう。生きて世の中の人の為になることを残すことが出来ず、死んで人に知られることが無ければ、一体何の価値があろうか)」と言いながら、睡魔が襲えば自分の股に錐を突き刺して眠気を払ったそうです。
偉人と呼ばれる人は、みな刻苦勉励したものです。だからこそ、素晴らしい成果を世に残すことができたのです。
どんな人でも自分に厳しく、懸命に努力すれば、必ずや素晴らしい結果を残すことができるに違いありません。
苦労は買ってでもするものです。
たゆまず努力しなければなりません。
