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コラム:今週の「こころの言葉」

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無功徳(むくどく)!

これは禅宗の開祖、菩提達磨(ぼだいだるま)の言葉とされています。

昔の中国に、武帝(ぶてい)という信仰心の篤い皇帝がいました。武帝は、インドからやって来た達磨を宮殿に招いて、これまで自分がしてきたあらゆる善行について話し、そして達磨に問いました。

「私は即位して以来、お寺を造り、お経を写し、お坊さんに供養をしてきました。これらの行為によって、一体、私にはどれ程の功徳があるであろうか」と。

それに対して達磨は、ただ「無功徳(功徳などは無い)」と答えました。

さて、武帝の行為は、どれもたいへんに素晴らしいもののように思えます。それなのに、達磨の答えは何と冷徹なことでしょう。

では達磨の真意はどこにあるのでしょうか?

実はこの話には続きがあります。

武帝は達磨の回答に納得できるはずはありません。問いを重ねます。
「(私はこれまでこれだけのことをしてきたのだ。なのに)どうして功徳が無いのだ」と。

達磨は再び答えます。
「あなたがなさったことは、まぼろしのようなもので実体はありません」と。

武帝は再び問います。
「では本当の功徳とは何だ」と。

達磨は言います。
「何も得られないところが功徳なのです。世俗的な価値観で考えてはなりません」と。(以上『景徳伝燈録』巻3より)

一体、人が神仏にお祈りする時には、何かの目的をもってするのが普通です。例えば、受験に合格したい、幸せになりたい、恋人が欲しい、お金持ちになりたい…。まさに「苦しい時の神頼み」です。

しかし、これらはあくまで世俗的な価値観にすぎません。大体、神仏を、お金を入れたら自動的に商品が出て来る自動販売機のように考えること自体、おかしいのではないでしょうか?

仏教の徳目の一つに「布施」があります。「布施」とは、「見返りを期待しない施し」のことです。神仏にお布施をするのに、見返りを期待することが、そもそも間違っているのです。

そもそも「布施」は、神仏やお坊さんに与えるものだけに限りません。見返りを期待しない施しであれば、どんな行為も布施と言えます。そして、見返りを期待しない行為ほど美しいものはありません。

こんな話があります。

私の友人が大学受験の時のことです。自分の息子が懸命に努力している姿を見て、居ても立ってもいられなかったのでしょう。彼のお母さんは、彼に黙って神社に行ってお百度参りをしたそうです。冷たい冬の朝、裸足で石畳の上を何度も何度も往復する、きっと辛かったに違いありません。しかし、その時のお母さんは辛いと思ってお百度を踏んでいたでしょうか?いえ、私にはそうは思えません。

辛いと思うどころか、きっとお母さんの心の中には、息子の合格への祈りしか無かったはずです。ましてや、自分がそれによって何かを得ようなどとはこれっぽっちも思ってはいなかったことでしょう。これが「無功徳」ということです。

結果的に、友人はめでたく大学に合格しました。「功徳」はありました。しかし、それは神仏の力ではなく、友人の努力の結果なのです。その努力を後押ししたのがお母さんの見返りを期待しない心だったのです。

またこんな逸話もあります。

生涯、懸命に念仏ばかり唱えていたお婆さんがいました。そのお婆さんが亡くなって閻魔大王の前に連れて来られました。お婆さんは自信満々です。「これだけ念仏をお唱えしたのだから、きっとお浄土に行けるに違いない」と。しかし、お婆さんの意に反して、閻魔様はこう言いました。

「お前の念仏をすべて確認したが、お前の念仏はすべて欲得ばかりの念仏だった。これではすぐに地獄行きだ」と。

お婆さんは恐れおののきました。しかし、閻魔様は、お婆さんの最後のひとつの念仏を見落としていました。それは、雷が鳴った時、お婆さんが無心で唱えた念仏でした。

閻魔様はこのたった一つの無心の念仏を評価し、お婆さんをお浄土に送りました。

無功徳とは、こういった功徳があるとか無いとかを離れた心のことを言うのです。

投稿者 sougen : 2008年02月10日 19:39

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