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2008年02月24日

コラム:今週のことば

今週のことば

和顔愛語(わげんあいご)

この言葉は、『華厳経』や『無量寿経』(ただし『大正新修大蔵経』では「軟語」と作る)など、諸経典の中に見える有名な言葉です。

「和願」とは、穏やかな顔、笑顔のこと、「愛語」とは、優しい言葉、慈しみに満ちた言葉のことです。

他人に対して、いつもこのようであれれば、他人も自分も幸せな気分になるに違いありません。

しかし、現実にはなかなかこうはいきません。

辛いことや嫌なことがあった時、人は自然と暗い表情になります。疲れている時に笑顔でいるのも大変なことです。また物事がうまくいかなかった時、イライラして周囲の人に辛く当たったりもするでしょう。これが人情というものです。いつも笑顔をふりまき、優しい言葉を口にし続けることはしんどいことです。

しかし、それでも笑顔でいれば、きっと事態は好転するに違いありません。優しい言葉を口にしていれば、人からも優しい言葉が返ってくることでしょう。笑顔と優しい言葉は、自他を幸福にするのです。

「和顔愛語」は、仏教でいう「布施」のひとつと言えましょう。つまり、それ自体が修行でもあるのです。

そのように心掛けて生きていれば、いつかは自然と「和顔愛語」で生きることができるようになるはずです。

われわれは、そのように生きていきたいものです。

投稿者 sougen : 19:07 | コメント (0)

2008年02月17日

コラム:今週の「こころの言葉」

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坐禅は乃(すなわ)ち安楽の法門なり

これは、『坐禅儀』という坐禅の要旨を説いた本の中に見える言葉です。

坐禅の効果について語られた本は枚挙に暇がない程です。「おすすめ書籍」にあげた本の中にも坐禅の効能を述べたものがいくつか含まれています。

さて、今回引用した『坐禅儀』では、「安楽の法門」ということについてどのように述べているのでしょうか?

『坐禅儀』では、坐禅の仕方から始まって、その効能についても以下のように説いています。

・静かな場所で厚い座布団を敷いて、衣服はゆったりとしたものを選び、姿勢を整えてから坐禅に入る。
・坐禅の形には結跏趺坐と半跏趺坐の二種類あるが、習熟の具合によってどちらを選んでもよい。
・脚を組んだ後、背筋をスッと伸ばす。息はゆったりと、舌は上あごを支えるようにし、口を閉じ、目は開いて居眠りを避ける。
・坐禅の形が安定し、呼吸が落ち着いたら、下腹をゆったりさせてアレコレと考えをめぐらさない。雑念が起こったら、すぐに意識を集中してこれに対処せよ。こうして意識を集中していくと、身体が一つの塊のような感覚になる。
・すると、自然に身体は軽やかに、心は爽やかに、意識は集中して益々はっきりしてくる。すると、心がどこまでも落ち着いて、安らかで楽しいことになるのだ。
・さらに「本当の自分」に目覚めることができたら、どんな場面に遭遇したとしても自在そのものだ。
・坐禅を終える時は、ゆるやかに身体を動かし、注意深く立ち上がることだ。決して軽率粗暴であってはならない。坐禅をしていない時も、一日中いつも坐禅で鍛えた心持ちで過ごすことだ。
・そもそも坐禅を組むことがなければ、臨終を迎える時になってあわてて意識を失うことになろう。いざ自らの死に直面した時、あわてることが無いように、普段から心を鍛えておく必要があるのだ。
・そのように出来てこそ、初めて他人を救うことも出来るというものだ。どうか正しく坐禅を習しなさい。

概ね以上の通りです。

古来、武士が坐禅に懸命に励んだのも、常に死を意識していたからでしょう。

正しく死ぬためには正しく生きねばなりません。まさに「生死一如」です。

まあ、それ程大袈裟に考えなくとも、まずは心の安らぎを得るだけでも十分でしょう。

ダラダラ過ごさず、一度は勇気を出して坐禅に挑戦してみましょう。きっと何かが変わるはずです。

投稿者 sougen : 19:14 | コメント (0)

2008年02月11日

おすすめ書籍:新谷尚紀『先祖供養のしきたり』

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「―わたしたちは〈死〉によって〈生〉かされている―。 

人は〈死者との対話〉のなかに生きている。死者によって生かされているのがわたしたちの人生だ。生者と死者はともにそれぞれの世界で生かしあう関係なのだ。 死・葬・墓・霊の民俗学」。

「できれば家で死にたいと願う人は多い。しかし、実際に身近な人が突然に亡くなったとき、どのように対処すればよいのか知る人は少ない。日本人の風俗・習慣・歴史から、死者の送りかた、そして供養のしかたを学ぶ」(帯文より)。

KKベストセラーズ ベスト新書 780円(税込)

「この世にいる家族や親族、友人などが、あの世の死者や先祖が眠る墓を訪ねて、花を手向けたり、線香を焚き、お経をあげたりすることを〈墓参り〉という。
むしろ、こうした行為は、子どもたちや孫たちに、自分がどこから生まれてきたのか、そして、決して一人だけこの世にいるのではない、先祖があってこそだ、ということを学ぶよい機会となるはずだ」(本文より抜粋)。

*本書は、民俗学的な立場から先祖供養の諸相について述べたものです。

筆者は本書を執筆した動機として、昨年来大ヒットしている「千の風になって」という歌の霊魂観をあげています。

周知の通り、「千の風になって」は、アメリカでの同時多発テロの追悼式の場でよみ上げられて評判となり、日本では新井満氏が翻訳し、オペラ歌手の秋川雅史さんが歌って大ヒットしました。

その内容は、死者が風や光や雪や鳥や星といった自然の一部になって遺族の側に居続ける、といった死生観をロマンチックに歌ったものです。

しかし、その霊魂観は実に素朴なものと言えます。

例えば、「死」というものを理解できない子供に「死」を納得させるために、「死んだら星になる」という説明がなされることもままあることです。実は、「千の風になって」の内容は、こうした子供に話す方便と大差無いのです。その意味で、この歌は、非常に幼稚な死生観をうたったものと言えましょう。

筆者はこう述べます。
「〈千の風〉は、自分の愛する彼や彼女を失った喪失感に戸惑い悩む自分の精神の安定を求める、小さな自己愛に過ぎない。悲歎のなかにいる自分が癒されたいのである。グリーフ・ケア、それが中心であり、かならずしもあの世の死者の苦しみを心配したり、声援を送っているのではない」。

確かにその通りです。「千の風…」を愛する人びとの話す死生観が非常に稚拙に思えるのは、こうした理由からでしょう。近親者の死に本当に身を切られるように苦しんでいる人の場合、この程度の死生観で癒されるとは到底思えません。仮に癒されるとしたら、秋川氏の歌う曲としての完成度の高さにあるのでしょう。

筆者は更にこう批判します。
「かつての伝統的な葬送観念が包括していたのは、生きている自分たちの側から見て、未知で不安なあの世へと旅立つ死者たちの苦しみや迷いを想像し、共感してその冥福を祈るという、他者愛の想像力によるものであった」。

何十万年もの昔に存在したネアンデルタール人も、近親者の死を悼んだと言います。それは決して自己愛によるものではなく、死者への愛からの行為であったと言えましょう。先祖供養の簡略化が進む現在、改めて先祖供養のあり方について考えることは必要なことです。

さて、内容に移りましょう。

本書は、タイトルから想像するような、先祖供養の具体的な方法を述べたものではありません。むしろ、先祖供養において実践すべき「しりたり」の由来について概説したものです。

人の死に方から通夜や葬儀の方法、お墓について、またお仏壇の祀り方など、項目を細かく挙げて先祖供養について説明をしていきます。

従来ならば非常に専門的なものとなるような内容を、平易に、しかも細かく説いていて、楽しく読むことができます。

余談ですが、本書の問題点を挙げるとすれば、独創的な先祖供養の方法を説くことで有名な、あの細木数子氏の著書を多く出版している、「KKベストセラーズ」から発刊されていることでしょうか?あるいは御社の罪滅ぼしでしょうか?皮肉はこれ位にしておきましょう。


投稿者 sougen : 19:26 | コメント (0)

2008年02月10日

コラム:今週の「こころの言葉」

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無功徳(むくどく)!

これは禅宗の開祖、菩提達磨(ぼだいだるま)の言葉とされています。

昔の中国に、武帝(ぶてい)という信仰心の篤い皇帝がいました。武帝は、インドからやって来た達磨を宮殿に招いて、これまで自分がしてきたあらゆる善行について話し、そして達磨に問いました。

「私は即位して以来、お寺を造り、お経を写し、お坊さんに供養をしてきました。これらの行為によって、一体、私にはどれ程の功徳があるであろうか」と。

それに対して達磨は、ただ「無功徳(功徳などは無い)」と答えました。

さて、武帝の行為は、どれもたいへんに素晴らしいもののように思えます。それなのに、達磨の答えは何と冷徹なことでしょう。

では達磨の真意はどこにあるのでしょうか?

実はこの話には続きがあります。

武帝は達磨の回答に納得できるはずはありません。問いを重ねます。
「(私はこれまでこれだけのことをしてきたのだ。なのに)どうして功徳が無いのだ」と。

達磨は再び答えます。
「あなたがなさったことは、まぼろしのようなもので実体はありません」と。

武帝は再び問います。
「では本当の功徳とは何だ」と。

達磨は言います。
「何も得られないところが功徳なのです。世俗的な価値観で考えてはなりません」と。(以上『景徳伝燈録』巻3より)

一体、人が神仏にお祈りする時には、何かの目的をもってするのが普通です。例えば、受験に合格したい、幸せになりたい、恋人が欲しい、お金持ちになりたい…。まさに「苦しい時の神頼み」です。

しかし、これらはあくまで世俗的な価値観にすぎません。大体、神仏を、お金を入れたら自動的に商品が出て来る自動販売機のように考えること自体、おかしいのではないでしょうか?

仏教の徳目の一つに「布施」があります。「布施」とは、「見返りを期待しない施し」のことです。神仏にお布施をするのに、見返りを期待することが、そもそも間違っているのです。

そもそも「布施」は、神仏やお坊さんに与えるものだけに限りません。見返りを期待しない施しであれば、どんな行為も布施と言えます。そして、見返りを期待しない行為ほど美しいものはありません。

こんな話があります。

私の友人が大学受験の時のことです。自分の息子が懸命に努力している姿を見て、居ても立ってもいられなかったのでしょう。彼のお母さんは、彼に黙って神社に行ってお百度参りをしたそうです。冷たい冬の朝、裸足で石畳の上を何度も何度も往復する、きっと辛かったに違いありません。しかし、その時のお母さんは辛いと思ってお百度を踏んでいたでしょうか?いえ、私にはそうは思えません。

辛いと思うどころか、きっとお母さんの心の中には、息子の合格への祈りしか無かったはずです。ましてや、自分がそれによって何かを得ようなどとはこれっぽっちも思ってはいなかったことでしょう。これが「無功徳」ということです。

結果的に、友人はめでたく大学に合格しました。「功徳」はありました。しかし、それは神仏の力ではなく、友人の努力の結果なのです。その努力を後押ししたのがお母さんの見返りを期待しない心だったのです。

またこんな逸話もあります。

生涯、懸命に念仏ばかり唱えていたお婆さんがいました。そのお婆さんが亡くなって閻魔大王の前に連れて来られました。お婆さんは自信満々です。「これだけ念仏をお唱えしたのだから、きっとお浄土に行けるに違いない」と。しかし、お婆さんの意に反して、閻魔様はこう言いました。

「お前の念仏をすべて確認したが、お前の念仏はすべて欲得ばかりの念仏だった。これではすぐに地獄行きだ」と。

お婆さんは恐れおののきました。しかし、閻魔様は、お婆さんの最後のひとつの念仏を見落としていました。それは、雷が鳴った時、お婆さんが無心で唱えた念仏でした。

閻魔様はこのたった一つの無心の念仏を評価し、お婆さんをお浄土に送りました。

無功徳とは、こういった功徳があるとか無いとかを離れた心のことを言うのです。

投稿者 sougen : 19:39 | コメント (0)

2008年02月08日

おすすめ書籍:高田明和『一日10分の坐禅入門―医者がすすめる禅のこころ―』

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「ストレス、うつ、生活習慣病にも《坐禅は効く》。禅のこころがあなたを癒す」。

「簡単にできる坐禅入門。
曹洞宗の開祖(*注記「曹洞宗=日本の曹洞宗」、「開祖=高祖」の誤り)である道元禅師は〈宝蔵自開〉と言われました。坐禅をすれば、自分の内側にもっているさまざまな能力、よい性格、人に好かれるとことが自然と出てくるというのです。私は現在坐禅に関心のある人が多いのは、こうした禅のことばに賭けてみようとする人が多いからだと思います。」(以上、帯文)

浜松医科大学名誉教授・高田明和氏による、坐禅解説書。

角川書店、720円(税込)

〈目次〉
第一章 医者のすすめる坐禅とは?
 一、なぜ今坐禅か
     心の病に悩む時代
     うつ病発生のメカニズム
     うつ病と心のあり方
     禅の教えが心を安らげる
 二、私の坐禅体験
     自分を苦しめた考え方
     禅僧のひとことの力
     日常に坐禅をとり入れる
 三、坐禅の優れたところ
     人の限界を突破する   
     努力のみで超えられないもの
     最高の境地に至る
第二章 高田流坐禅術
 一、どのような心構えで坐禅するか
     伝統的な坐禅の基本
     坐禅に向かう心構え
     人に秘められた力を引き出す
 二、用意するものなど
     ひとりの坐禅は可か
     坐禅にふさわしい時間
     坐禅に適した場所
     服装について
     坐蒲を用意する
     線香と線香立て
     お経を上げる
     食事のとり方
     睡眠のとり方
 三、調身と調息、調心
     まず姿勢を正す
     次に呼吸を正す
     そして心を正す
     公案とどう向きあうか
第三章 日常生活における坐禅
 一、椅子に坐っての坐禅
     もっとも簡単な坐禅術
     言葉を有効に使う
 二、内観の法と軟酥の法
     白隠禅師の教え
     内観の法の実践
     軟酥の法の実践
第四章 ストレス社会と坐禅
 一、ストレスと生活習慣病
     ストレスのメカニズム
     ストレスの本当の原因
     坐禅で生活習慣病予防
 二、うつを防ぎ、うつを癒す
     うつ病診断の難しさ
     うつ病と自殺
     うつ病と宗教
     坐禅がうつ病に効く理由
     呼吸を正す効果
     坐禅には「明るい思い」が大事
     朝の坐禅が効果的
第五章 読経と禅語
 一、お経に親しむ
 二、心をゆさぶる禅語         
   

*筆者は医師でありながら、長年にわたって禅に親しみ、50年近くも坐禅に励んでこられた方です。

以前、山折哲雄『早朝坐禅 ―凛とした生活のすすめ―』をおすすめした時にも述べましたが、禅僧の著す坐禅入門書は、概ね大上段からの説明であり、坐禅の素人にとって、どこかよそよそしい印象を持たせるものが多かったように思えます。

また最近の傾向として、坐禅の効果を説明するためにセロトニン神経などの医学用語も多用されます。

しかし、専門家でも無い僧侶が、取って付けたように医学用語を使って坐禅の効用を説くことに、私は少なからず違和感を感じていました。

本書はまぎれもなく、専門家が医学的な見地から坐禅の効用を述べたものです。その意味で、非常に説得力のあるものと言えましょう。

また坐禅の方法についても平易な文章で説明されています。

ストレスで苦しむ現代人にとって、坐禅がそれを解決する一つの方法であることを知り得る良書と言えましょう。

ただし好事家の陥りやすい弊ですが、知識の披露がやや多いように思えます。徹底して医者の立場から坐禅の効用と方法について述べられるとより良かったようにも思えますが、坐禅の入門書としては十分でしょう。

これから坐禅をしてみようと思っている人にオススメです。


投稿者 sougen : 18:24 | コメント (0)

2008年02月03日

コラム:「今週のこころの言葉」

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財、多ければ還(かえ)って己を害(そこ)なう
  之(これ)を散(さん)ずれば即ち福生じ
    之(これ)を聚(あつ)むれば即ち禍(わざわ)い起こる


これは唐代の寒山(8~9世紀頃)の言葉です。

寒山は、中国の天台山国清寺に隠栖した豊干(ぶかん)門下の風狂の僧とされますが、実在したどうかは不明です。

今週の言葉は、この寒山の詩を集めたものとされる『寒山詩』からです。

お金は言うまでもなく大切なものです。しかし、財産があまりに多すぎると、却ってその所有者を破綻に導きかねないものでもあります。つまり、お金は諸刃の剣のごときものなのです。

ここに「之を散ずれば」とあるのは、「散財」の意味ではなく、「正しく使う」という程の意味でしょう。

正しい方法でお金を使うことのできる人の元には、福がやって来るに違いありません。

しかし反対に、守銭奴のような人の元には、きっと禍しかやって来ないでしょう。

お金には人格はありません。その所有者に人格があるのです。

そして、その所有者を狂わせるものもまたお金なのです。

お金は必要以上に持たない方が賢明と言えましょう。


ちなみに、『寒山詩』に見える詩の全体は以下の通りです。

貪人(とんじん)の財を聚(あつ)むるを好むこと [欲張り野郎が財産をかき集めるのを好むのは]
恰(あたか)も梟(ふくろう)の子を愛するが如し [まるでフクロウが子供を可愛がるようなものだ]
子は大なれば母を食らう [その子供は大きくなれば母親を食ってしまう]
財は多ければ還って己を害なう [財産が増えていくとかえって自分をそこなう]
之を散ずれば即ち福生じ [使ってしまえば福が生じ]
之を聚むれば即ち禍起こる [集めたら災難が起こる]
財無く亦(ま)た福無くば [財産もなく災難もなければ]
翼を鼓(こ)す 青雲の裏(うち) [青空の雲の中に羽ばたいて自由自在だ]
(以上、入矢仙介・松村昂訳注『寒山詩』筑摩書房・禅の語録、より引用)。

投稿者 sougen : 14:34 | コメント (0)