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コラム:「機心」(きしん)

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中国の古典『荘子』「外篇・天地大十二」の中に次のような話があります。

子貢という人物が旅の途中、一人の老人の畑を作っている所に出くわしました。老人は地下道を掘って井戸に入り、壅を抱え上げては井戸水を汲み出して畑に注いでいました。(そのような具合では当然)手間がかかるだけです。非常に効率の悪い仕事だと言えましょう。

それを見た子貢は言ました、「ご老人、機械を使えばもっと簡単に、そして効果的に水をかけることができますよ。やってみませんか」と。

老人は子貢を見て言いました、「どうするのかね」と。

子貢は言ました、「木に穴を開けて機械を作り、後部は重く前部は軽くする。そうするとものを引くように水が汲めますし、湯があふれるように早くできます。その機械を《はねつるべ》と言うのです」と。

老人は一旦は顔色を変えたものの、すぐに笑って言ました。

「私は(かつて)師からこのように聞いた。〈機械を持てば機械を用いて行う仕事(=機事)が出て来るし、機械を用いる仕事が出て来ると、機械にとらわれる心(=機心)が必ず起きる。機械にとらわれる心が胸中にわだかまると、(心の)純白の度合いが薄くなり、(心の)純白の度合いが薄くなると、精神が定まらない。精神の定まらないところには《道》が宿らない〉と。わしは(機械というものを)知らない訳ではなく、ただ恥ずかしくて使えないだけなのだ」と。(市川安司・遠藤哲夫共著『新釈漢文体系』8参考)

「はねつるべ」というのは、「柱で支えた横木の一端に石を付け、他端に取り付けた釣瓶を石の重みではね上げ、井戸水を汲み上げるもの」(@NIFTY辞書より引用)です。

「はねつるべ」など、現代人から見ればひどく原始的な機械と言えましょう。しかしこの老人は、このような原始的な機械を使うことさえ「機械にとらわれる心」、つまり「機心」というものが起こるからと言って拒否したのです。

一体、私たち人間は、道具を使用することで他の動物との差別化を図ってきました。そうでなければ、力も無く、足も遅い人間など、あっと言う間に他の動物の餌食にされて絶滅してしまったことでしょう。いえ、他の動物の餌食にならないまでも、食べものを手に入れることさえ困難であったことでしょう。つまり、人間にとって道具を使うということは、ある程度、本質的なものことと言えます。

しかし、道具や機械を使うことによって何か大事なことを失ってはいないでしょうか?

確かに機械を使えば、何事も効率よく行うことができます。そしてより多くの仕事をこなすことができるようになります。しかし、人間の欲望は果てがありません。次にはもっと楽に、もっと早く、もっと効率よく仕事をこなすことを求めるようになっていくことでしょう。では、そのような生活は本当に楽で快適なものなのでしょうか?

現代社会は荘子の時代に比べれば、考えられない程に進歩しています。その結果、現代社会は大変に複雑なものになってしまいました。

私たちは便利な機械をボタン一つで使うことができます。しかし、そんなに便利な機械でも一旦、故障してしまえば手も足もでません。先日も東京で電車の改札の機械が故障して大変な騒ぎになったところです。そう考えれば、現代社会は不便さと便利さが表裏一体の中で生きていると言えるでしょう。

また機械が複雑になれば、それを作る作業も複雑になっていきます。それどころか現代では、機械を作るのも機械になっています。そのような場では、人間もまた「機械の一部」なのだと言えるでしょう。

また複雑な社会は、社会構造までも複雑にしていきます。地中には多くの管が、頭上には多くの電線が張り巡らされています。携帯電話が普及した現在では、眼に見えない電波もまた私たちを取り囲んでいます。

それらの複雑な社会構造の全てを理解している人が、一体、どれほどいるのでしょうか?私たちは、まるで迷子になった子供のようです。荘子の中の老人が指摘しているように、現代人のストレスの多くは、「機心」によって起こっていると言えましょう。

確かに今から原始時代のような生活にもどることはできません。しかし、私たちは、「機事」に囲まれ、「機心」にとらわれて心が純白でなくなっていることを自覚するべきでしょう。

道元禅師は、長い修行の後に「眼が横に、鼻が縦についていることがわかった」と言いました。

人間は、もっと単純なものなのではないでしょうか?

投稿者 sougen : 2007年10月22日 18:31