« 2007年08月 | メイン | 2007年10月 »
2007年09月26日
コラム:「この月の月」

夕べは今年の中秋の名月。秋の到来を告げるように、夕べから気温も下がり、今朝などは肌寒いほどでした。
道元は四季を「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」と詠いました。空気の澄み始めたこの時期の月は、まさに格別だと言えるでしょう。
さて、禅では非常にたくさんの月を題材にした風流な言葉が残されています。
例えば「千江水有り千江の月、万里雲無し万里の天」。
天空に浮かぶ月が地上を照らし出す。そして月の光に呼応して、月影が千本の川の水面に浮かんでいる。天を見上げると万里の雲一つ無い空。とても雄大な景色を詠い上げたものですね。その夜の月はさぞや美しい月であったことでしょう。
例えば「吾が心は秋月に似たり、碧潭清くして皎潔」。
私の心はまるで碧潭に皎々と冴えている秋の月のようだ、という意味です(入矢義高『禅語辞典』参照)。澄み切った碧色の池に秋の月が浮かんでいる様を詠ったものです。この句の後に「物の比倫するに堪えること無し、我をして如何に説かしめん」と続きます。この月の美しさは他に比べようもない、という感慨です。中秋の名月にピッタリのうたです。
一般に禅では、「月」は「仏性」(ぶっしょう)の譬喩とされます。「仏性」とは、「仏の本質」(中村元『仏教語辞典』)と解されますが、平たく言えば、「心の本質」ということでしょう。
仏教では、我々の心にはみな「仏性」が有って、普段は煩悩によって隠されている。その煩悩を取り払えば、「仏性」が現れ出て、みな仏になることが出来るのだとされます。
雲一つない空に浮かぶ一輪の月がわれわれの心の本質。そう考えると、我々日本人が、ことさらに月を愛する理由が理解できるような気がします。
さて、禅の言葉ではありませんが、「月月に 月見る月は多けれど 月見る月は この月の月」(詠み人知らず)という「月」という文字を八つ詠み込んだ有名な句もあります。
中秋は旧暦の8月15日のこと。「月」を8回詠み込んだのは、「8月」にかけているのだとも言われています。「この月の月」とは、「今月(旧暦8月)の月」ということ、つまり中秋の名月を指します。
しかし私は「この月の月」という言葉を、端的に「目前に浮かんでいるこの月」と取りたい。事実、即今見ている月以外、月はそこには存在しません。まさしく眼の前に浮かんでいる「この月」こそが、私をこのような澄んだ心持ちにさせるのだ、と取りたいのです。
言うまでも無く、「この月の月」は、あなたの本当の心の投影です。
「憎い」「辛い」「悲しい」…、そんな雑多な思いを振り捨てて、一心に「この月」を見ている時、「月」に喩えられるあなたの「本当の素直な心」が現れ出ているのです。そんな時、あなたは紛れもなく仏様なのです。
そんなことを思いながら、「この月の月」を堪能してみてはいかがですか?
投稿者 sougen : 17:27
2007年09月09日
おすすめ書籍:山折哲雄『早朝坐禅 ―凛とした生活のすすめ―

時には「ひとり」で坐ってみよ!
「群れ」を離れ、静かに自分自身と向き合えば、人生が深くなる。
現代ほど〈人間関係〉の重要性が説かれる時代もない。家族、学校、会社、それぞれにおけるコミュニケーションの大切さが謳われる一方、疲れた人やうつ病は増え続け、自殺者は九年連続で三万人を超えている。著者は、疲れたときには〈群れ〉から離れて〈ひとり〉になってみよ、という。毎朝、五分坐って、己の心と向き合う。正しい姿勢で、深い呼吸をする。季節の風を胸元に入れながら、歩く。ときには庭にたたずみ、河原で風に吹かれる。ひとり静かに自分自身や自然と向き合うことが、騒々しい人間関係の疲れを取り、豊かな人生を手に入れる最良の方法なのだ。
―凛とした生活を送るために大切な身体作法を実践的に説く、山折流・人生指南の書。
祥伝社新書、740円
【目次】
序章 自殺者三万人という異常事態
第一章 早朝坐禅 ―まず、三分から始めてみる
第二章 散歩の効用 ―歩くことで、何が見えてくるか
第三章 心が楽になる「身体作法」 ―正しい姿勢が人生を変える
第四章 うつになる人、ならない人 ―「親子関係、人間関係」でつまずかない
第五章 夜の作法を身につける ―「眠れない人」のための、夜とのつき合い方指南
終章 無常を思って生きる ―「死」を穏やかに受け容れるためのレッスン
*本書は、『早朝坐禅』と題しながら、坐禅については第一章にしか述べられない。しかも著者の本格的な坐禅経験は、永平寺での三泊四日の研修だけである。したがって、本来著者は、たとえ高名な宗教学者であったとしても、坐禅について語る「資格」のない人物である。実際、著者自身も、当初は本書を『早朝坐禅』と題することに違和感を感じたそうである。
しかし、著者は我流ながらも、30年程も早朝坐禅に励んできている。そして、坐禅や散歩に励むようになったのは、人間関係に疲れたことが原因の、うつ病経験からであったという。本書の本旨は、「いかにしてうつ病のような現代人の心の病を克服するか」ということにあるのである。
一体、本屋に行けば、坐禅指南の書は枚挙に暇がないほどである。そしてその多くは永年本格的に坐禅に励んできた禅僧によるものである。
しかし、禅僧と呼ばれる人たちの坐禅の目的は、「さとり」を求めることにあるのであって、心の病を治すことにはない。だから、禅僧による坐禅指南の書は、概ね大上段からの説明である。そして、どこか、よそよそしい。
例えば、ある禅の本山から出された坐禅の書を開いてみると、写真が多く、禅についての説明がふんだんに載せられて、見る分には美しい。禅とは何か、禅宗とはどういった宗教かが詳しく説明されていて、禅の入門書としては好書であると言える。
また、「セロトニン神経」とか、医学の用語によって、いかに坐禅が健康に良いかが説明されてもいる。
しかし、坐禅に少しでも興味を抱く現代人が、そんな専門用語や禅の知識など求めているであろうか?
彼らの多くは山折氏と同様に、人間関係に疲れ、生活に疲れ、ひどい場合にはうつ病などの神経症に苦しむ人たちである。彼らはただ坐禅によって心が軽くなることを求めているだけであろう。
本書は、やむにやまれぬ思いで坐禅に励んだ一坐禅愛好家の著として、坐禅未経験の人に、やさしくその効用を伝えるものとして格好の書といえる。
現代に生きることに疲れた人、うつ病などの神経症に苦しむ人は必見であろう。
そして、一人でも多くの人に実際に坐禅を経験して欲しい。
まずは気楽に! レッツ坐禅!
投稿者 sougen : 19:22
