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2007年08月10日

コラム:火防達磨(ひぶせだるま) ―非戦への祈り―

達磨.jpg

禅宗の開祖は菩提達磨(ぼだいだるま)大師です。「菩提達磨」というと何だか難しい感じがしますが、要するに皆様に親しまれている「達磨さん」のことです。

達磨大師は禅宗の開祖ですから、禅宗寺院の本堂には、達磨大師の木像をお祀りするのがならわしになっています。

当山にも戦前、立派な達磨大師の木像がありました。しかし戦後、当山の先々代住職・宗寛和尚によって、当山の達磨大師はまずは神戸の寺院に移され、やがて京都の寺院へ移されました。

では、どうして長きにわたって当山をお守り下さった達磨大師様が、他所の寺院に移されることになったのでしょうか?それにはこんな経緯があります。

太平洋戦争も末期の昭和20年3月17日と6月5日、神戸にもアメリカ軍による大空襲がありました。神戸大空襲です。

空襲は、神戸だけではなく、周辺の地区にも広がりました。

『西宮の歴史』(西宮市教育委員会)所収、宮本範子「空襲体験記―火の雨」によると、西宮への最初の空襲は、5月11日が最初、その後、6月に3回、7月に3回、焼夷弾が西宮の街に落とされたようです。

特に西宮に甚大な被害を与えたのは、8月6日の未明の空襲でした。この空襲による被害者は56,000人にものぼったようです。

当時の空襲の凄まじさを、宮本氏は次のように述懐しています。

「夜中の警報サイレンにまたかと思いつ防空服に身を固め家の外に出ると、西の方はもう炎上しているのか空全体が強い夕焼けのように明るく、昼のようであった。いつもとようすがちがうなと思っていた途端、ザザー、シュルシュルと焼夷弾がおちる音、大きな打ち上げ花火のような火の雨が頭上にふりそそいだ。と思うと爆弾の炸裂するはげしい音、そして急に誰かが私に強くぶつかると思ったら、私の左上腕は爆弾の破片がぬけ通って、腕はうちひしがれ皮一枚という感じでぶら下がっていた。…空襲は連日でその危険からのがれるため病院を追われて旧武徳殿(六湛寺町)へ運ばれた。百畳敷きもあるような広い所にぎっしり負傷者が詰まっていて、たまに巡回される軍医や看護婦さんが患者を踏まないように苦労しておられたのを覚えている。傷の痛さか家を焼かれたせいか、発狂者が多く、重傷者の顔や身体を所かまわず踏んで廻る者があり、痛んで泣き叫ぶ者、狂おしくわめく者などさながら生き地獄であった。」(前掲書p.214~216)

戦争を知らない私にも、凄惨さが目に浮かびます。同書には当時の焼け落ちて石の鳥居だけを残した西宮神社周辺の写真も添付されていますが、まさしく焼け野原です。

そして、当山もまた、諸堂の一切がこの空襲によって灰燼に帰しました。

当時の住職であった宗寛和尚は、この空襲の最中、壇信徒の位牌と諸仏像、そして達磨大師木像を防空壕の中に隠し、その上にありったけの畳を重ねて水をかけて、これらを保護しました。こうしてお位牌と仏像は、宗寛和尚の努力により類焼を免れました。

しかし仏像が残っても、お祀りする場所がありません。またお経をあげるにも、衣も袈裟も、仏具も何もかも燃え尽きてしまっています。全く八方ふさがりの状態です。

そんな中、焼失を免れた神戸のある寺院から、袈裟や仏具の提供を受けました。宗寛和尚は暖かな人情に触れてさぞや感激したことでしょう。しかし、当山にはそんな気持ちにお返しするものは何もありません。

こうして宗寛和尚は、そうした気持ちに応えるために、達磨大師像を神戸の寺院に「里子」に出すことを決めました。当山が復興を果たし、神戸の寺院へお返しが出来るような状態になれば、達磨様にはお帰り頂くつもりだったのでしょう。空洞の達磨像の内側に宗寛和尚自ら「順心寺」と記し、神戸の寺院まで持参しました。

しかし宗寛和尚は間もなく帰らぬ人となりました。そして達磨像は、やがて京都の寺院へ移されることとなりました。

当時の京都の寺院のご住職様は、あの大空襲から燃え残った逸話に感激し、この達磨を「火防達磨」と命名し、「防火の仏様」としてお祀りすることにしました。京都では当山の達磨様は、たいへんな信仰を集めたようです。

しかし、一昨年、京都の寺院のご住職様のご好意により、その達磨大師の木像は60年ぶりに当山へ戻されました。

こうして「火防達磨」と命名された達磨様は、今は当山の本堂で、静かに坐禅を組んでいます。

達磨様は何も言いません。ただ黙って鋭い目線をこちらに向けて坐禅を組んでいるだけです。しかし、その目には、きっとあの空襲の猛火が焼き付いていることでしょう。

当山の達磨様には、そんな因縁があったのです。

戦争の悲惨さ、愚かさについて改めて言葉にする必要はないでしょうし、また「戦争を知らない」世代の私に戦争を語る資格もありません。先にあげた宮本氏の証言だけで十分だと思います。

64年前の西宮でも、戦争によって大変な数の人々が戦死し、何もかもを失ったのです。そのことを決して忘れてはいけません。

当山の達磨様はその「生き証人」なのです。非戦を祈ることも当山の役目であると、私は達磨様とお会いする度に、達磨様に戒められているのです。

投稿者 sougen : 16:49