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おすすめ書籍:上田紀行『目覚めよ仏教!-ダライ・ラマとの対話-』

こんなに激しく語るダライ・ラマ、はじめて見た!!
文化人類学者である著者が、亡命中のダライ・ラマを尋ねて実現した二日間にわたる対話の記録。
上田紀行
「仏教の本質を見極め、それを甦らせれば、必ずやそれは現代の私たちの苦しみを救うものとなるのではないか、この時代を救うものとなるのではないか。」
ダライ・ラマ
「そして、これまで議論してきた仏教の復興です。古来の仏教の伝統を、より生きたものとして復興させ、この時代にあったものとしていくことによって、仏教は現代において存在価値を獲得し、活かされることになるでしょう。」
*著者はかつて『がんばれ仏教』で、日本仏教の現状に問題を提起し、そして新たな活動に励む現代の僧侶を取り上げることによって、日本仏教の可能性について言及した。本書はその続編に位置付けられる。
さて本書を一読してまず感じられることは、ダライ・ラマの言葉が驚くほど論理的で平易なことだ(英語での対談であるから、訳者の意向も反映されている可能性もある)。日本の仏教者にありがちな、いわゆる「説教臭さ」が微塵も感じられない。そして先鋭的でもある。
ダライ・ラマは言う、
「神の存在を信じる宗教のグループに属する現在のローマ法王は、たいへん知的な神学者であり、宗教的な指導者ですが、彼は信仰と論理性が共存しなければならない、と強調しています。信仰のみでは宗教は単に神秘になってしまいますが、その信心が正しい論理に伴われているとき、その信心は確かな裏づけのある適切なものとなり、日常生活にも妥当性を持つものとなるのです。
仏教では、そもそも一番初めの段階から、信仰と論理は両立していなければなりません。論理性を欠く信仰は単なる盲信となってしまいます。それは釈尊によて明確に否定されています。信仰は単なる盲信的な信心ではなくて、自分が信心をするに値する適切な土台を釈尊の教えが持っているということについて、自分自身が確信することが必要なのです。…ですから、単に教えられたことを、釈尊が説かれているからという理由によって信ずるのではなくて、教えに対してまず懐疑的な態度によって疑ってかかり、その教えがほんとうに正しいのかどうかということを、自分の頭を用いて調べ、ほんとうにそれが正しいのだということを理解したうえで、その教えを信じていくという態度が必要であるといわれているのです。」(p.72~74)
このようなダライ・ラマの主張は、現代的な問題への一仏教者としての提言として位置付けることができる。論題は仏教界への批判、教育の問題、家族愛について、そして経済活動について、etc…。
時には仏教を離れるように見えながらも、ダライ・ラマの話の根底に常に仏教が息づいている。ダライ・ラマが日本の現況について非常によく理解していることもまた驚きである。
一方で、インタビュアーであり、著者でもある上田氏の質問は、時に独りよがりとなり、また詭弁に堕することもある。ダライ・ラマの鷹揚さと比較すれば、どうしても「青臭さ」が感じられる。しかしダライ・ラマから日本社会の現状に対するこれだけの提言を引き出した点は評価すべきである。
さらに両者の間には共通点がある。それは「仏教が現代社会によりコミットしなければならない」ということである。
上田氏はかつて『がんばれ仏教』で、社会に積極的に関係を持つ僧侶を紹介した。そして、今回もダライ・ラマにそういった僧侶達の活動を紹介している。
そしてダライ・ラマも僧侶が社会にコミットすべきだと主張していることは、先の引用に見た通りである。その上で、ダライ・ラマはこう言う。
「社会を成り立たせ、統合している要因は、法律なのではなくて、愛と思いやりなのです。我々は法律やルールで強制されて一緒に暮らしているのではなくて、私たち自身から自然に発せられる思いやりによって一緒に生活を営んでいるのです。」(p.225)
こうしてダライ・ラマは「愛と思いやり」こそが、僧侶にとっても人々にとっても社会に生きていく上で重要なのだと説く。この点について、著者は次のようにまとめる。
「ダライ・ラマのこれまでの70年余にわたる生涯は、封建時代、近代、そしてポスト・モダンを一人の人生に凝縮しきったものだ。封建制における王として育ち、しかし亡命後は政治と宗教の近代化を推し進める。そして近代の冷酷な社会システムに代わるものとして、愛と思いやりに基づく社会を提示する。その〈愛と思いやり〉は単なる伝統的な価値の復活ではない。復古主義ではなく、近代化を通りぬけた後に再提示された、これからの時代における〈愛と思いやり〉なのである。
封建時代からポスト・モダンまでを駆け抜けた観音菩薩、それがダライ・ラマその人なのである。」(p.222)
中国政府に侵略され、多くのチベットの同胞たちが悲惨な目に遭いながら、未だチベットに足を踏み入れることの出来ないダライ・ラマ。そのような境遇のダライ・ラマがかくも快活に、また愛と慈悲について語り続けることに驚きを禁じ得ない。
「その姿を拝見するだけで誰もが幸せになってしまう柔和な笑顔の内に、実は激しいエネルギーが燃焼している。そして自分の話が毒にも薬にもならない〈ありがたい話〉として聞かれることをダライ・ラマは断固拒否していた。それは真に世界に訴えかけることを自覚している宗教者の姿であった」(著者談・p.12)
ぜひ多くの方々に、ダライ・ラマのメッセージを受け取って頂きたい。
最後に一つだけ欲を言えば、仏教の価値を高く評価し、日本の仏教者に檄を飛ばし続ける著者に、是非とも、次は日本の仏教者に目を向けて貰いたい。
確かに著者の、現在の日本の仏教者への批判には首肯せざるをえない点が多い。その点は我々も大いに反省し、真摯に著者の提言に耳を傾けねばならないであろう。
しかし日本にも、特に臨済禅にはすぐれた僧侶が多くいる。まずはそういった方々に目を向けて欲しい。そして、日々壇信徒と触れ合いながら、市井にあって汗を流し続ける町の僧侶達のことをもっと知るべきであろう。目だつ活動だけが宗教活動ではない。むしろそういった日々の積み重ねが、仏教をこれほどまでに日本社会に根付かせた一番の要因でもあろう。
日本の仏教は目覚め続けているのである。
230頁、日本放送出版協会、¥1,124 (税込)
投稿者 sougen : 2007年07月15日 11:56
