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コラム:百花春至為誰開(百花春至って誰が為にか開く)

季節はもう4月。暖かい日が続き、花々は妍を競い爛漫に咲き乱れています。
日本人にとって春の花といえば、やはり桜が代表格でしょう。別格と言ってもよいかもしれません。桜もまた今や満開です。
しかし、禅の本場である中国では桜はあまりメジャーな存在ではありません。「桜」という文字は確かに中国から入って来たものではありますが、中国での「桜」は、「ユスラウメ」という花のことだったようです。
一方、日本人は殊の外、桜を愛します。それは四季がはっきりした日本では、長く厳しい冬を乗り越えた喜びが、あの華やかに咲き誇る桜の花に集約されていると人々が感じるからかもしれません。季節感が無くなってきた現在でも、桜の花に特別な意味を見出すのは、ある意味、DNAの中に組み込まれた日本人の特質の一つなのでしょう。
さて標題の「百花春至って誰が為にか開く」という言葉は、『碧巌録』という禅の書の中に見えるものです。ではどんな問答でしょうか。
雪峰(せっぽう)という一人の禅者が弟子たちに言った、「全大地をつまみあげれば、粟の粒ほどの大きさだ。その全大地をお前たちの目の前に放り投げたが、お前たちはとんと理解できない。仕方がないからすぐに仕事を始めなさい」と。
この問答を解釈して付けた詩の中に、「百花春至って誰が為にか開く」という言葉があります。
雪峰は弟子たちに正しく普遍の真理というものを理解して欲しいがために、このような難解な言葉を発したのです。ではその真理とはどこにあるものか?何てことはない、眼の前のあらゆる世界のそのままが真理そのものなのです。
百花は無心に開き、無心に散って行きます。そこに何のはからいもありません。誰かに見られようとも、誰かから褒められようとも思ってもいません。深い谷のせせらぎに包まれた人跡未踏の場所に、本当に美しい花が咲いていることもあるでしょう。その花は「誰かに見られなくて悲しい」などと言うでしょうか。
一方で道端でホコリまみれになって咲いている花もあります。その花は「ホコリっぽいから嫌だ」などと文句を言うでしょうか。言うはずありませんね。思いもしないでしょう。《ただ》咲いているだけです。
いやむしろ、その《ただ》という意識さえもないでしょう。花は、自然のままに生を受け、その授かった「いのち」を精一杯に発揮し、大地一杯に咲いているだけなのです。
雪峰の難解な言葉は、眼の前で無心に咲き誇る百花の如くにあるべきことを、弟子たちに求めたものなのでしょう。
一方、あれやこれやと文句や不満ばかりを心につのらせて生きるのが我々人間です。
我々は自らの愚かさを、百花の精一杯の生命の発露を見ることを通して反省する必要があるでしょう。そして、自らの、この授かった「いのち」に深い感謝をするべきでしょう。
投稿者 sougen : 2007年04月07日 17:42
