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2007年02月28日

おすすめ書籍:玄侑宗久『わたしを超えて いのちの往復書簡』

いのちの往復書簡.jpg
 
僧侶でもある作家と、がんを体験したエッセイストが、般若心経、不動智神妙録、ユング心理学、量子論や、心とからだについて自在に思いを綴り合った感動の記録。

「〈わたし〉を超える、なんてことが、あり得るのだろうか…。生きているのは〈わたし〉だし、それを認識できるのも〈わたし〉なんだし…。そう思うのも無理はない。
しかしそれは、実際にこの本のなかで起こったことだ。
ここに収められた対話は、一度しかお会いしたことのない岸本葉子さんと、ほぼ一年間にわたって交わした往復書簡である。お互いの日常から哲学、健康や病気、からだと心の問題、また禅や瞑想、身体技術など、その話題はじつに無尽であったと思うけれど、どうやら対話のすべてがやがて一羽の鳳に変身し、大空に飛翔していくのを、私は見た。
たぶんそれと同じことを、岸本さんは〈わたしを超えて〉と表現されたのだと思う。タイトルは岸本さんによる命名である。
〈わたし〉を超えるとは、言葉を超えることでもある。」

(序文より)

中央公論新社、233頁、1,400円。

岸本葉子=エッセイスト。東京大学教養学部を卒業。会社勤務を経て、中国北京に留学。著書に、「炊飯器とキーボード」「女の底力、捨てたもんじゃない」「四十でがんになってから」など多数。
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産経新聞書評

投稿者 sougen : 17:53

2007年02月25日

その他の情報:お寺での法要はいかが?

本堂.jpg

当山では、お寺での法要と、お寺でのお斎を受け付けております。お気軽にお尋ね下さい。

ご自宅での法要は気楽だとは思います。しかし、お寺での広々とした本堂での法要は、それだけで心が洗われるに違いありません。

また法要後のお斎も当山でいかがですか?

境内地にある「順心寺会館」をご使用頂けます。50名ほどまで大丈夫です。

いつでもご連絡下さい。詳細をお教えいたします。

順心寺会館2階.JPGお斎の会場

投稿者 sougen : 15:44 | コメント (0)

2007年02月05日

おすすめ書籍:禅僧になったアメリカ人

禅僧になったアメリカ人2.jpg

アメリカ人でありながら禅僧となったトーマス・カーシュナー師の生涯を振り返る。

何故、異国の一青年が禅に生きることになったのか?

トーマス・カーシュナー師は、母国アメリカでの高校生時代に鈴木大拙博士の著書を読んで禅を知り、大学では柴山全慶老師の禅講座を聞いて、在学中に学園紛争真っただ中の早稲田大学へ留学。 

弓道の稲垣源四郎先生を通して坐禅を始め、縁あって、加藤耕山老師に見え、居士として耕山老師の弟子の塚田耕雲老師に参禅、その後、神戸祥福寺の山田無文老師のもとで居士のまま約三年間の僧堂生活を送る。

妙心寺派の山中宗睦師について出家して雲水となり、改めて湊素堂老師の鉗鎚を受けに鎌倉建長寺へ掛搭する。

しかし、鬱になって自殺を考えたり、禅の修行のために大学を退学したことを悔いてもう一度大学に入学したり……。

紆余曲折の人生を送りながらも40年もの永きにわたって日本において禅的生活を送るカーシュナー師のお話は、日本人である我々に、禅的生活の意味を再確認させることでしょう。

カーシュナー師の自伝『禅僧になったアメリカ人』、好評発売中。

投稿者 sougen : 19:19 | コメント (0)

コラム:悪をなさず善をなせ(諸悪莫作、衆善奉行)

一休寺 008①.jpg

先日、京都の田辺市にある「酬恩庵・一休寺」へ行って来ました。一休寺は、その名の通り、とんちで有名な一休さんが住んでいたお寺です。

一休は、一休宗純(1394-1481)といい、大徳寺の住職にも推挙された程の禅僧でした。

その一休が残した書の中で、最も有名なものが、「諸悪莫作、衆善奉行」という言葉を揮毫したものです。非常に激しい筆致で、日本の禅僧の書の中でも優れたものの一つとされています。

一休寺 023①.jpg 一休筆「諸悪莫作、衆善奉行」碑


「諸悪莫作、衆善奉行」とは、「七仏通戒偈」という仏教の初期の戒の言葉で、全体で、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(もろもろの悪をなさず、多くの善を行い、自らの心を浄めること、これが諸仏の教えである)となります。

では善と悪とは一体、何でしょうか?道徳的に正しければ善でしょうか?それとも法律的に正しければ善なのでしょうか?

例えば日本で美徳とされる事柄でも、海を隔てた隣の国に行けば悪徳とされることもあるでしょう。また、時代が変われば価値観が変化するのも当然のことです。

そのようなことばかりでは無く、状況によっても善悪の判断は変わります。

このように、善悪という概念は、実は非常に曖昧で相対的なものなのです。

ではどうやって生きれば良いのでしょうか?厄介な問題です。

禅は、善と悪という区別でさえも、分別だといって退けます。しかし、だからといって好きなように放埒に生きれば良いのだと主張する訳でもありません。

「七仏通戒偈」には、善と悪についての定義ののち、「自らの心を浄めよ」とあります。「心を浄める」とは、「無心」になることです。実はこれが重要なのです。

私心にもとづいた善行は偽善です。私心にもとづいた善行は、結局は自分の利益を優先することでしょうから。

また悪行は、自分で悪いと思っているのであれば、そもそも行なう必要はありませんし、あえて悪行と指摘することもないでしょう。

本当の善行とは、心を浄めた上での私心の無い行為なのです。そもそも善悪は相対的なものなのですから、私心があれば、いくら善いことを行なったとしてもきっと何処かでボロが出て来ることでしょう。

自らの心中の誤解に気付くこと、それが悪事をなさない第一歩なのです。そして、心を浄めること、これが善行の第一歩なのです。

その上で柔軟な心でもって複雑な現実社会の中で正しく行動すること、これが「諸悪莫作、衆善奉行」ということなのです。

さて、禅の逸話に次のようなものがあります。

白楽天が地方の長官だった頃、松の樹上で坐禅を組んで暮らす風変わりな禅僧がいるというので会いに行きました。白楽天はその禅僧に言います、「危ないですよ」と。しかしその禅僧は、白楽天に対して反対に、「あんたの方がずっと危険じゃないか」と言います。当然白楽天は反論します。その禅僧は再び白楽天に対して言います、「あんたは雑事に追われてばかりで煩悩まみれ、どこが安全だというんだ」と。白楽天は反省してその禅僧に教えを請います。するとその禅僧はこう言いました、「諸悪莫作、衆善奉行」と。
バカバカしく思った白楽天は「三歳の子供でもそんな当たり前のことはわかっておりますわい」と気色ばみます。すかさずその禅僧は言います、「三歳の子供でもわかっていても、八十歳の老人でも実行出来ないではないか」と。

悪いことをしない、善いことする、ということは当たり前の生き方です。しかし、理屈では当たり前のように思っていることでも、実は何一つできないことばかりだというのが、われわれ凡夫なのです。

そのような自らを反省し、私心の無い善行を積み重ねて生きること、それが肝要なのです。それが「諸悪莫作、衆善奉行」に生きるということなのです。

投稿者 sougen : 14:59 | コメント (0)