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2006年08月21日

コラム(11):お地蔵さま

 当山2  022.jpg

8月24日は地蔵盆です。

この時期、街角のお地蔵さまの周囲には提灯がぶら下げられ、子供連れの親子で賑わいます。とても心温まる光景です。

【お地蔵さまについて】

そもそもお地蔵さまは、「地蔵菩薩」と言って、「大地を包み込む」という意味を持つ菩薩(修行者)のことです。

地蔵菩薩の本来のお役目は、お釈迦さまがお亡くなりになって以後、弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に現われて人々をお救いになる迄の間、六道*に輪廻して苦しむあらゆる人々を救済することです。

*六道=すべての衆生が生死を繰り返す六つの世界。迷いのない浄土に対して、まだ迷いのある世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。前の三つを三悪道、あとの三つを三善道という。 (大辞林より)

つまり、お地蔵さまは、人間界だけではなく、あの世に到るまでのあらゆるところに出現して、苦痛にあえぐ人々を分け隔てなく救済する存在なのです。だから、お地蔵さまは街角のあちこちに建てられて、我々をお守りになっておられるのです。

しかし、お地蔵さまは、我が国では特に、子供をお守りになる存在と信じられています。

お地蔵さまには多くよだれかけがかけられています。それは、子供を亡くした母親が、我が子の匂いの染みついたよだれかけをかけて、賽の河原で迷っている我が子を見つけ出し、善処へ導いて下さるようにとお祈りをするからです。

これはよだれかけに限りません。時には帽子やマフラーを掛けられたお地蔵さまも目にしますが、それは同様の想いからです。

「地蔵和讃」と呼ばれる歌に、「一重積んでは父のため、二重積んでは母さまと、三重積んでは古里の、残る兄弟わがためと、紅葉のような手を合わせ、礼拝廻向ぞしおらしや…」とありますが、子の親を思う気持ち、親の子を思う気持ちを思うと、この「地蔵和讃」の一節は、涙無くしては読むことは出来ないでしょう。

暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も、街角にあって我々を見つめるお地蔵さまを見る度、そのありがたさに胸が熱くなり、手を合わせたくなります。本当に、お地蔵さまは、なんとありがたいほとけさまなのでしょう。

【地蔵盆】

さて、そのような信仰を持つお地蔵さまですが、阪神大震災以前には、写真の当山の地蔵堂でも「地蔵盆」が開かれていました。中心となっていたのは商店街の方々です。

幼い頃の私も、境内全体に吊された提灯の中から、自分の名前を記された提灯を見つけて、とても嬉しく思ったことを思い出します。また地域の子供にだけ配られるお菓子袋は、格別の宝物でもありました。

しかし、残念ながら、阪神大震災の時に、提灯を管理していたお婆さんのお宅も全壊し、提灯もボロボロになってしまい、地蔵盆を開くことが出来なくなってしまいました。また、それを受け継ぐ若い方もいませんでした。

この地蔵堂だけではなく、当山には他に「天下泰平」と記された「手引地蔵」が山門の横に佇んでいます。江戸時代の建立ですが、おそらくは世の中が乱れていた時に西宮の町民をお救い下さるようにとの願いを込めて建立されたのでしょう。

皮肉にも、震災以後、西宮界隈にはマンションが建ち並び、子供の姿を多く見かけるようになりました。事実、当山の近くにある浜脇小学校では、教室の数が不足してグラウンドにプレハブの臨時校舎が建てられています。

しかし、この近隣には当山のお地蔵さましかありません。

近隣の子供の健やかな生育を祈る為にも、是非とも当山の地蔵盆も復活させたいと、切に願っています。

そして、それにより、地域の子供を守るという意識がより強くなれば、とも願っています。そういった大人の目こそが、子供を事件や事故から守る第一歩であるとも思うのです。


我々大人が、お地蔵さまの目を通して子供を見ること―、それが実は街角に立つお地蔵さまの本当の役目であると、そう思います。

子供にとってのお地蔵さまとは、実は我々大人一人一人に他ならないのです。

投稿者 sougen : 16:36 | コメント (0)