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行事:西宮再発見「文楽を楽しむ!」企画意図について

夷かきの図(『摂津名所図絵』より)
当山のある「産所町」は、文楽の発祥の地です。
(由来について)
その昔、この産所町には、「傀儡師」(くぐつ)と呼ばれる、人形操りを特技としながら、戎神社に雑用に奉仕していた人々がいました。
彼らは、平素は様々な雑務に励みながら、一方で、時に応じて人形操りを演じ、多くの人びとを楽しませていました。
くぐつの人々が人形操りを行なった目的は、自らが奉じていた戎神の信仰を広めることでした。従って、彼らの演技を「夷かき」、または「夷まわし」と言っていました。
くぐつのことが最初に見える文献は、平安末期の大江匡房(おおえのまさふさ)が著した『傀儡師記』です。これによると、当時のくぐつは、奇術や軽業などの芸事を行なう「芸能人」でしたが、特に人形操りを「くぐつ」と呼び、これが一番好評であったと言います。これはまた「木偶(でく)まわし」とも呼ばれていたようです。
彼らはまた「散所民」(さんじょみん)とも呼ばれていました。つまり、「散所」が住んでいた場所だから、「産所町」と呼ばれるようになったのです。
また各地に存在する、「三条」や「山上」などという地名も、多く「散所」に由来するようです。その代表的な例が、同じく人形操りの盛んな、淡路の「三条町」です。これは、当地の「散所民」が、干鰯を淡路へ輸出する漁師と共に淡路へ渡り、彼の地に居着いたからだと思われます。
近世に入り、人形操りの文化は、新しく浄瑠璃の音曲を取り入れ、浄瑠璃の語りにあわせて人形を舞わす、という形態に変化しました。これが「文楽」の始まりです。
やがて、浄瑠璃と結びついて成立した文楽は、近松門左衛門の出現によって、演劇として洗練されるようになり、いよいよ大衆演劇として親しまれるようになっていきます。
こうして地方へ広まっていった人形操りですが、それに反比例して、当の西宮での活動はめっきり減少していきました。
産所村にあった操り芝居の小屋は、やがて今在家に移され、後には普通の芝居小屋となります。
そして、明治に入る頃には、西宮での人形操りの伝統は潰えてしまったのです。
今では、NTTの社屋の前に、傀儡師の銅像が佇むばかりです。

(西宮再発見!)
さて、このような西宮の誇るべき伝統文化の存在を、一体、どれ程の方が知っているでしょうか?
西宮は早い時代から開けていた、歴史のある町です。しかも、漁師たちが市を開いていたこともあって商業都市の面も持ち、また宗教都市でもありました。そして、文楽という世界に誇る文化を生みだした文化都市でもあるのです!
このような西宮の町に我々が住んでいることは、本当に誇るべきことです。
しかし、阪神大震災が発生して既に十年、町の様相も一変し、人々の顔ぶれも一新致しました。一方で、700年以上の歴史を持つ「中央商店街」にはマンションが建ち並び、存亡の危機に陥っています。
時代の趨勢とは言え、一抹の寂しさも感じます。
本年で当山はめでたく開創から750年目を迎えました。開創は鎌倉時代の末期、1256年のことです。その間、当山はずっとこの地に在りながら、町の移り変わりを見て参りました。当山の護持は、ひとえに此の地に住する人々の「想い」の御陰であります。
そのことを思うにつけ、今一度、この町の来し方、行く末を見直す機会が必要なのではないか、と常々考えておりました。また商店街の方々も、このままで良いのかと大きな不安を抱いておられます。商店街の方々もまた、「文楽」をキーワードに、町おこしが出来ないものかと模索しておられました。
こうした中、当山の想いを理解して下さった方に、吉田文雀師を御紹介賜りました。文雀先生もまた、西宮の住民です。そして、過日、文雀先生とお会いし、私の思いを吐露致しました所、大いに意を同じくして頂き、当山で是非、文楽の公演をしようとの話になりました。
文楽の公演を通じて、西宮の伝統と文化を一人でも多く知って頂き、そして各人が誇りを懐き、今後の西宮のあり方を考える契機になってくれればと、願っております。
西宮で生まれ育った方は無論、一時的に西宮に留まっておられる方にも、「自分は西宮に住んでいたんだ」という誇りを持って欲しい、そう願っております。
そして、再び、文楽が当地に根付いてくれればと願ってもおります。
それによって、人々の想いが、広く繋がっていってくれれば、なんと素晴らしいことではありませんか。
その嚆矢となるのが、今回の文楽興行なのです。
どうか、皆様、奮って御参加下さい。そして、自らの住んでいる地に想いを馳せて下さい。
皆様の御参加をお待ちいたしております。
投稿者 sougen : 2006年07月01日 23:04
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