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2006年04月22日

本堂改修:3月

改修2006.3 015②.jpg縁の補強

三月に入り、内部は左官工事、外部はコンクリートの縁の補強と慌ただしくなって参りました。

改修2006.3 017②.jpg

正面の縁は、壇信徒の方々が歩きやすいように幅を広げました。平行して正面扉も折戸とし、全面開放出来るように致します。大きな儀式の折など、本堂に入りきれない程の人が集まることがあります。これまでは縁が狭くて人が上がりにくかったのですが、これからはそんな時にも外側から参拝することが出来るようになることでしょう。

また階段の幅も広げ、全体のバランスを整えました。同時に一段の高さもグッと低くしました。これで脚のお悪い方でも上りやすくなるものと思えます。

投稿者 sougen : 19:26 | コメント (0)

2006年04月06日

コラム(7):天上天下唯我独尊

改修2006.4 0012.jpg4月8日は釈迦様の誕生日です。

お釈迦様のお誕生日を「花祭り」と言って、各寺院では生れたばかりのお釈迦様の像に甘茶をかけて祝います。

そもそも、お釈迦さまは、紀元前500年前後にお生まれになったとされています。お釈迦さまの本名は「ゴータマ・シッダルタ」、何故に皆な「お釈迦さま」というのかと言えば、釈迦族の王子であったからです。

お釈迦様のことを「仏陀(ブッダ)」とも言いますが、これは「覚ったひと」という意味で、仏教の真理をお悟りになった後の呼び名ということになります。

お釈迦様は、釈迦国の王である浄飯王と、摩耶夫人との間に生まれました。

お釈迦さまのご生誕は多分に伝説的です。

ある夜、摩耶夫人がお休みになっていますと、右脇から六本の牙を持った白い象が身体の中に入って来る夢をご覧になったそうです。インドでは「象」は神聖な動物ですから、この夢は尊い人物が生れてくるという夢告ですね。

それから十月十日、摩耶夫人がご出産のためにご夫人の里であるコーリヤ国へお帰りになるその途中、真っ赤に花が咲き乱れる「ルンビニーの園」で一休みし、沐浴して身体を清め、アソーカの枝を手折ろうとしたその瞬間、右脇からお釈迦様がお生まれになったそうです。それが4月8日なのです。

摩耶夫人の右脇からお生まれになったお釈迦様は、生まれてすぐ悠然と七歩歩み、一指は天を指さし、一指は地を指さして、「天上天下唯我独尊」と高らかに宣せられたそうです。

お釈迦さまが、そのように天下に自らの誕生の宣言をなされた後、仏教の二大護法神である「梵天」・「帝釈天」が、天から降りてきて、それぞれ釈迦の左右に侍立し、その間を、「那陀龍王」と「跋那陀龍王」という二人の龍王が、清浄な甘露水をお釈迦様に注ぎかけました。

それが、現在の「降誕会」で、小さなお釈迦さまの像に甘茶を注いでお釈迦さまのご生誕を祝う「花祭り」の儀式のいわれです。

ではお釈迦様がお生まれになった時に発せられたという「天上天下唯我独尊」とは一体どういう意味なのでしょうか?

 「天上天下唯我独尊」ということは、「天の上にも、この地上にも、私一人が尊い存在である」という意味です。聞きようによっては大変に傲慢な言葉であるようですが、当然のことながら、お釈迦様が生誕直後に七歩歩いてこのように述べられたということは無かったでしょう。

これは後の時代に、仏教教団が成立していく過程において、お釈迦様を神格化するために作りあげられた伝説でしょう。生れたばかりの赤ん坊が流暢に話し出す筈はありません。しかし、この赤ん坊の「オギャー」という泣き声が、実はお釈迦様の「天上天下唯我独尊」という言葉の意味なのです。

 「オギャー」という泣き声をあげている赤ん坊は、この世にたった一人の人間です。そんな只一人の人間の叫びは、何物にも代え難い、誠に尊いものと言えるでしょう。これこそが命の尊さです。しかも、何の欲望も無い、全く無垢で、無念無心なる赤ん坊の産声は、その命の尊さを感じさせる、まさしく象徴的なものであると言えましょう。

確かにお釈迦様は偉大なるが故に、お誕生日を世界中でお祝いして頂けるのでしょうが、お釈迦様とて一人の人間。人間であるという点では、皆な同じです。そして、どんな人間も、「オギャー」、つまり、「天上天下唯我独尊」と高らかに歌い上げてこの世に現れ出たのです。

それが広がると、この世に生を受けた動植物の一切が悉く皆な「唯我独尊」であるとも言えるでしょう。誠に「柳は緑、花は紅」の境涯です。

柳は緑のままで美しく、花は紅のままで美しい。今ちょうど咲き誇る桜は、まさに燃え上がるように華やかですが、その一方で、桜の根元にひっそりと咲く一本の雑草もまた、時と所を同じくして命を謳歌しているのです。その両者に違いはありません。この世に存在する全てのもの、森羅万象は、それぞれ固有の姿、生き方をもっていながら、それぞれが関係を持ちながら存在しています。そして、それぞれの個性を力一杯に生かすところに真の調和があり、それこそが仏国土なのです。 

男と女、サラリーマンと自営業、この世には五万と立場が存在していますが、それぞれ立場は違っても、各々その分に応じ、その立場において、皆なその特色を発揮し、自己をくらまさない所、これがこそが「唯我独尊」の面目躍如のところです。

女性は女性としてその働きに応じて動けば良いし、男性は男性として懸命に働けばいい。お勤めの方は勤め人として、僧侶は僧侶として、社長は社長として、課長は課長として働けばいい。それぞれ立場が違うだけで、根底は「唯我独尊」です。

その立場を超えて、他の立場をうらやむから妬みや嫉みが生じるのです。人は皆なそれぞれの立場で一生懸命に頑張ればいい、ただそれだけです。生まれた時を考えて下さい。皆な裸ん坊で泣き声を上げながら生まれてきたのです。死ぬ時を考えて下さい。皆な平等に腰が痛い、膝が痛いと言って年を取り、皆な平等に死んで行きます。人の生には根底に「死」が流れているんですね。

死すべき自らに執着する、これが苦を生みだします。ところが、このままだと単なる虚無主義、厭世主義に陥ってしまいます。死すべき運命にあるからこそ、大切に生きなければならないんですね。一生懸命に生きねばならない。命の尊厳とはこのようなことを言うのでしょう。 

こうしたこと全てが、このお釈迦様の「天上天下唯我独尊」という言葉に集約されているのです。

投稿者 sougen : 17:47 | コメント (0)