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本堂改修:設計過程その②

【妙心寺開山・関山慧玄禅師について】

こうして妙心寺開山堂「微笑庵」をモデルに、設計を進めることと致しました。

因みに、妙心寺の開山禅師は「関山慧玄」[かんざんえげん・1277-1360]といいます。現在、全国の臨済宗の寺院の内、妙心寺派に属する寺院数は約3,400ヶ寺、黄檗宗を含めても、全体の約6割を占めます。

その開山禅師ですから、関山は歴史上非常に重要な禅者です。しかし関山については教科書にも出てきませんし、決してメジャーな禅者ではありません。それは関山禅師が隠遁を好まれた方で、記録が非常に少ないからです。

その少ない史料を元に、関山禅師の生涯を追ってみますと、以下の通りとなります。

建治3年(1277)、信州高梨家に生まれる。父に連れられて鎌倉・建長寺に上り得度。嘉暦2年(1327)、建長寺の西来庵での、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・大覚禅師)の50回忌に出頭し、そこで宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう・大灯国師)の優れることを聞き、大徳寺の宗峰に参ずる。嘉暦4年(1329)大悟。この時、宗峰の指示により、名前を「慧眼」から「慧玄」に改める。翌年、宗峰より印状を与えられた後、美濃伊深に入って悟後の修行につとめる。やがて建武4年(1337)宗峰の遷化(せんげ。亡くなること)に伴い、花園上皇の請に応えて京都へ戻り、妙心寺の開山となる。しかしやがて再び行脚。観応2年(1351)、妙心寺再住の院宣が降り、妙心寺に戻る。以後は弟子の指導に専念し、またその日常底は質素そのものであった。延文5年(1360)12月12日示寂。世寿84。歴朝より「本有円成国師」「仏心覚照国師」「大定聖応国師」「光徳勝妙国師」「自性天真国師」「放無量光国師」の国師号を賜わり、明治42年(1909)に「無相大師」の大師号を賜わる。法嗣は授翁宗弼のみ。

その関山禅師が埋葬された場所に建てられたものが、「微笑庵」です。

この「微笑庵」は、現在の妙心寺の建物の中で最古のものです。

妙心寺は鎌倉時代の末期(一説には室町時代初期)に開かれましたが、かの応仁の乱で全焼致します。従って、現在の妙心寺の建造物は、殆ど江戸時代になってから再建されたものです。

ところが微笑庵は、元来妙心寺のものでは無く、東福寺より天文6年(1537)に移築されたものです。

その様式も簡素で、純粋に禅宗様の形式でまとめられております。

しかし、そうは言っても、本堂と開山堂とは、そもそも根本的にその目的が異なりますから、全く同じ形式を踏襲する訳にはいきません。

そこで、設計を手がける東氏と京都の様々な寺院の本堂を見学して、参考とすることと致しました。


【設計案・契約】

妙心寺・南禅寺・大徳寺と、その塔頭を見学して周りましたが、この内、特に興味深かったのは大徳寺でした。

大徳寺は臨済宗の大本山の一つで妙心寺とも非常に関係の深い寺院です。

その伽藍の内、説法をする場所である「法堂」(はっとう)は、現存するものは寛永13年(1636)に再建されたものです。天井の龍の絵は、狩野探幽が35歳の時に描いたもので、同じく狩野探幽の手に成る妙心寺の龍の絵よりも、若いときに描かれたもの故、迫力に満ちています。

大徳寺の法堂は普段公開しておりませんが、今回、大徳寺の中の友人を通じて特別に見学させて頂きました。

その説明によれば、大徳寺の法堂の天井裏はドーム型になっていて、音がよく響くように計算されて造られているそうです。

全く昔の人の智恵は素晴らしいものです。キリスト教に較べ、仏教は音楽的な面において劣っていると言われます。ゴスペルなどはそれだけで優れた音楽であると言えるでしょう。

一方仏教の場合、お経の節回しは「声明」(しょうみょう)と言われ、天台宗のものが有名です。個人的には声明も素晴らしいとは思いますが、音楽と呼ぶには少々違和感を覚えます。

しかも仏教者にとって音楽はあまり興味の対象では無かったと思え、今の本堂(方丈)の多くは開放することに重点が置かれて、音響効果にまでとても気を回しているとは思えません。

そんな中、音響効果にまで気を遣ってお堂を建築している当時の大工の炯眼に、今更ながら感心致しました。

こうして様々な寺院を参考にしながら、どうにか基本となる設計案をまとめ、具体的な予算について検討することとなりました。

交渉にあたっては、設計士である東氏、施工を担当する中島工務店の早野所長には、見積もりには厳密を期すことをお願い致しました。

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このようなことは資本主義社会の現在では当然のことではありますが、まだまだ古い体質の残っている寺院では、大雑把な会計で済ませる方も少なくありません。

しかし今回の事業に関しては、当山の壇信徒何百件もの方々から、当山の維持のためにと高額の御寄進を賜っているのです。経済的に余裕のあるお宅ならまだしも、年金の中から寄進頂いた方や、小さなお子様を抱えながらも寄進して頂いた方もたくさんいらっしゃいます。

そんな方々の「想い」を一身に背負っている以上、厳密を期することは当然のことです。ましてや今回は施工会社である中島工務店を信用して競争入札という方法を取らずに、一社のみに依頼しているのです。うるさく言わせて頂くの当然のことと思えます。

東氏・早野氏には、そんなこちらの気持ちを有り体に申し上げ、何度も予算について検討して頂きました。

今回の事業に関しては、前面に立って交渉したのは副住職です。まだまだ若造である副住職が、年配であり、経験豊富な東氏・早野氏にうるさく申し上げることに多少のためらいはありましたが、皆様の「想い」を背負っている以上、副住職は皆様の代弁者であります。そんな「想い」に支えられながら、どうにか交渉を進めました。

過程で東氏・早野氏と見解を異にする点もありましたが、その点は話合うことで解決致しました。また交渉の過程で、東氏・早野氏共に心中穏やかならざることもあったのではないかと危惧致しましたが、最後は笑ってご理解頂けました。

こうして、10月の末、漸く契約を交わすことと相成りました。その間、住職は節目節目で確認をしながら見守っておりましたが、契約の段階で「こんなもんやろうな」と首肯して頂き、東氏・早野氏、そして副住職共々胸をなで下ろしました。

こうしていよいよ工事が始まりました。


投稿者 sougen : 2005年11月27日 16:19