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2005年11月27日

コラム:(4)器

人には器というものがある。

そんなことを物語った逸話に次のようなものがある。

「ある時、司馬頭陀という者が、(中国の)湖南省からやって来た。百丈和尚は、彼に次のように言った、〈わしは潙山[いさん]という山にある寺院の住職になろうと思うがどうであろうか?〉。…彼はこう答えた、〈潙山は非常に美しい山で、1500人もの修行者のいる大寺院です。しかし、和尚様が住職をする所ではありません〉。百丈和尚は尋ねました。〈どうしてか?〉。彼は答えた、〈和尚様は非常にお痩せになっております。一方潙山は大きく、また裕福な寺院です。それにもかかわらず、仮に和尚様が無理をして住職をなされば、修行者は1000人にも満たないものとなるでしょう〉」。

百丈は百丈懐海[ひゃくじょうえかい・749-814]といって、中国の唐代に活躍し、禅宗寺院の様々な規則をお作りなられた方です。そんな方ですから、非常に厳格で、また神経の細かい、几帳面な方でもあったのでしょう。そして、体格はやせ形、わかるような気が致します。

一方、潙山という寺院は、非常に大きく、また景色も良くて、修行者も沢山いる立派な寺院です。百丈ほどの僧侶ですから、たとえ大寺院である潙山であっても、役者に不足がある筈もありません。

しかし、司馬頭陀の答えは「ノー」でした。それは、「百丈に合っていないから」という理由でした。そして、選ばれたのは、百丈の弟子の霊祐でした。霊祐は恰幅のいい、大柄な方であったようです。

確かに、大きな組織のリーダーとなるような人物は、どこか鷹揚な所が無ければいけません。リーダーがあまりに几帳面過ぎると、却って下の人間にとっては息苦しく感じるものでしょう。

このように、いくら立派な人物であっても、向いていない場所にあってはその才能を生かし切ることが出来ないものです。人には「器」というものがあるからです。

問題は、そのことを本人が受け入れることが出来るかどうか、です。小さな「我」を優先すると、却って本人はおろか、組織全体にも悪い結果を導くこととなります。

近年、個性の重視が教育の場でも謳われております。しかし、人の器を無視して個性ばかり重視しても、却って本人も不幸になるのではないでしょうか?個性の重視ということと、わがままを混同してはいないでしょうか?

当人の器をまず見極めること、まずはこれが肝要でしょう。そして、本人も自らの器を真摯に見つめ、それを甘んじて受け入れることが大切です。そして、それが個性を十二分に発揮する結果をも導くこととなるのです。

百丈と潙山の話は、そんなことを我々に伝える逸話であると言えるでしょう。


投稿者 sougen : 18:27 | コメント (0)

おすすめ書籍:玄侑宗久『無量光明の世界』

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死とその後の世界を、科学的・宗教的見地からやさしく解き明かす。

CDブックー
無量光明の世界とは(語り・玄侑宗久)ほか

徳間書店、2005年11月30日、89頁、2857円+税

投稿者 sougen : 18:17

本堂改修:設計過程その②

【妙心寺開山・関山慧玄禅師について】

こうして妙心寺開山堂「微笑庵」をモデルに、設計を進めることと致しました。

因みに、妙心寺の開山禅師は「関山慧玄」[かんざんえげん・1277-1360]といいます。現在、全国の臨済宗の寺院の内、妙心寺派に属する寺院数は約3,400ヶ寺、黄檗宗を含めても、全体の約6割を占めます。

その開山禅師ですから、関山は歴史上非常に重要な禅者です。しかし関山については教科書にも出てきませんし、決してメジャーな禅者ではありません。それは関山禅師が隠遁を好まれた方で、記録が非常に少ないからです。

その少ない史料を元に、関山禅師の生涯を追ってみますと、以下の通りとなります。

建治3年(1277)、信州高梨家に生まれる。父に連れられて鎌倉・建長寺に上り得度。嘉暦2年(1327)、建長寺の西来庵での、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・大覚禅師)の50回忌に出頭し、そこで宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう・大灯国師)の優れることを聞き、大徳寺の宗峰に参ずる。嘉暦4年(1329)大悟。この時、宗峰の指示により、名前を「慧眼」から「慧玄」に改める。翌年、宗峰より印状を与えられた後、美濃伊深に入って悟後の修行につとめる。やがて建武4年(1337)宗峰の遷化(せんげ。亡くなること)に伴い、花園上皇の請に応えて京都へ戻り、妙心寺の開山となる。しかしやがて再び行脚。観応2年(1351)、妙心寺再住の院宣が降り、妙心寺に戻る。以後は弟子の指導に専念し、またその日常底は質素そのものであった。延文5年(1360)12月12日示寂。世寿84。歴朝より「本有円成国師」「仏心覚照国師」「大定聖応国師」「光徳勝妙国師」「自性天真国師」「放無量光国師」の国師号を賜わり、明治42年(1909)に「無相大師」の大師号を賜わる。法嗣は授翁宗弼のみ。

その関山禅師が埋葬された場所に建てられたものが、「微笑庵」です。

この「微笑庵」は、現在の妙心寺の建物の中で最古のものです。

妙心寺は鎌倉時代の末期(一説には室町時代初期)に開かれましたが、かの応仁の乱で全焼致します。従って、現在の妙心寺の建造物は、殆ど江戸時代になってから再建されたものです。

ところが微笑庵は、元来妙心寺のものでは無く、東福寺より天文6年(1537)に移築されたものです。

その様式も簡素で、純粋に禅宗様の形式でまとめられております。

しかし、そうは言っても、本堂と開山堂とは、そもそも根本的にその目的が異なりますから、全く同じ形式を踏襲する訳にはいきません。

そこで、設計を手がける東氏と京都の様々な寺院の本堂を見学して、参考とすることと致しました。


【設計案・契約】

妙心寺・南禅寺・大徳寺と、その塔頭を見学して周りましたが、この内、特に興味深かったのは大徳寺でした。

大徳寺は臨済宗の大本山の一つで妙心寺とも非常に関係の深い寺院です。

その伽藍の内、説法をする場所である「法堂」(はっとう)は、現存するものは寛永13年(1636)に再建されたものです。天井の龍の絵は、狩野探幽が35歳の時に描いたもので、同じく狩野探幽の手に成る妙心寺の龍の絵よりも、若いときに描かれたもの故、迫力に満ちています。

大徳寺の法堂は普段公開しておりませんが、今回、大徳寺の中の友人を通じて特別に見学させて頂きました。

その説明によれば、大徳寺の法堂の天井裏はドーム型になっていて、音がよく響くように計算されて造られているそうです。

全く昔の人の智恵は素晴らしいものです。キリスト教に較べ、仏教は音楽的な面において劣っていると言われます。ゴスペルなどはそれだけで優れた音楽であると言えるでしょう。

一方仏教の場合、お経の節回しは「声明」(しょうみょう)と言われ、天台宗のものが有名です。個人的には声明も素晴らしいとは思いますが、音楽と呼ぶには少々違和感を覚えます。

しかも仏教者にとって音楽はあまり興味の対象では無かったと思え、今の本堂(方丈)の多くは開放することに重点が置かれて、音響効果にまでとても気を回しているとは思えません。

そんな中、音響効果にまで気を遣ってお堂を建築している当時の大工の炯眼に、今更ながら感心致しました。

こうして様々な寺院を参考にしながら、どうにか基本となる設計案をまとめ、具体的な予算について検討することとなりました。

交渉にあたっては、設計士である東氏、施工を担当する中島工務店の早野所長には、見積もりには厳密を期すことをお願い致しました。

改修hayano  004.jpg

このようなことは資本主義社会の現在では当然のことではありますが、まだまだ古い体質の残っている寺院では、大雑把な会計で済ませる方も少なくありません。

しかし今回の事業に関しては、当山の壇信徒何百件もの方々から、当山の維持のためにと高額の御寄進を賜っているのです。経済的に余裕のあるお宅ならまだしも、年金の中から寄進頂いた方や、小さなお子様を抱えながらも寄進して頂いた方もたくさんいらっしゃいます。

そんな方々の「想い」を一身に背負っている以上、厳密を期することは当然のことです。ましてや今回は施工会社である中島工務店を信用して競争入札という方法を取らずに、一社のみに依頼しているのです。うるさく言わせて頂くの当然のことと思えます。

東氏・早野氏には、そんなこちらの気持ちを有り体に申し上げ、何度も予算について検討して頂きました。

今回の事業に関しては、前面に立って交渉したのは副住職です。まだまだ若造である副住職が、年配であり、経験豊富な東氏・早野氏にうるさく申し上げることに多少のためらいはありましたが、皆様の「想い」を背負っている以上、副住職は皆様の代弁者であります。そんな「想い」に支えられながら、どうにか交渉を進めました。

過程で東氏・早野氏と見解を異にする点もありましたが、その点は話合うことで解決致しました。また交渉の過程で、東氏・早野氏共に心中穏やかならざることもあったのではないかと危惧致しましたが、最後は笑ってご理解頂けました。

こうして、10月の末、漸く契約を交わすことと相成りました。その間、住職は節目節目で確認をしながら見守っておりましたが、契約の段階で「こんなもんやろうな」と首肯して頂き、東氏・早野氏、そして副住職共々胸をなで下ろしました。

こうしていよいよ工事が始まりました。


投稿者 sougen : 16:19

2005年11月09日

おすすめ書籍:玄侑宗久『禅語遊心』

new05_11_10b.jpg禅僧であり小説家、玄侑宗久師の最新刊!豊饒なる禅語の世界へ誘う。

解き放つ。

かみしめ、味わい、深く呑み込む。
季節の巡りに身を添わせ、自然と親和して、
やがて言葉を超えてゆく。
禅語の世界の豊饒を、老師二十四人の墨蹟と達意の文章で紹介。

日常に風が吹き、もっと自由になる「禅的生活」実践篇。

「禅は世間の常識というものに対し、かなり懐疑的である。この世で生きていくうえでは世間の常識も必要だが、それは往々にして我々の精神を不自由にする。禅がなにより大切だと考えるのは、精神の自由なのだ。ここに述べた禅語を味わい、納得した事柄を生活のなかで実践していくうちに、いつしかあなたは自由になり、そしていささか非常識になっているかもしれない。(中略)ここで自由とは、無邪気のことでもある。世間の常識に潜む邪気に、無邪気で向き合うのだ。無邪気こそ、我々の禅が回帰すべき場所であり、邪気に対抗できる力なのである。」

*本書の校正、並びに出典の精査に当山副住職も携わっております。

筑摩書房、2005年11月10日、249頁、1600円+税


【著者紹介】
玄侑宗久[げんゆうそうきゅう]
1956年福島県三春町生まれ。慶應義塾大学文学部卒。天龍寺専門道場にて修行。現在、臨済宗妙心寺派福聚寺副住職。また、2001年「中陰の花」で第125回芥川賞受賞。『中陰の花』『御開帳綺譚』(文藝春秋)、『水の舳先』『アミターバー無量光明』『リーラ 神の庭の遊戯』(新潮社)、『私だけの仏教』(講談社+α新書)、『禅的生活』(ちくま新書)、『死んだらどうなるの?』(ちくまプリマー新書)、『釈迦に説法』(新潮新書)、『サンショウウオの明るい禅』(海竜社)、『やおよろず的』(四季社)、『脳と魂』(養老孟司との共著)、『祝福』(坂本真典とのコラボレーション、以上筑摩書房)、『なぜ、悩む!』(A.スマナサーラとの共著、サンガ)など、著書多数。

公式HP:http://genyu-sokyu.com/

投稿者 sougen : 19:17 | コメント (0)

2005年11月04日

コラム:(3)躍動する生命 ーいのちをみつめ、こころをみつめるー 

中国の唐の時代、臨済義玄([りんざいぎげん]?-867)という一人の禅僧がいた。今日の臨済宗の名は彼の名をうけてのもの。
彼の言動をまとめた書は、数ある禅宗の書の内で最もすぐれたものとの評価を受ける。

彼は次のように語る。

「この肉体には無位[むい]の真人[しんにん]がいて、常にお前達の顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!さあ見よ!」(入矢義高『臨済録』岩波文庫、p.21)。

ここに見える「無位の真人」とは、一般にいう「霊魂」などとは異なる、カタチを有しない生命そのもののこと。臨済は終始一貫してこの生命をみつめることを要求するのである。

また別の言葉を見よう。

「君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ」(同上書p.39)。

一見不思議なように感じるこの言葉。肉体が無ければ言葉も発することは出来ないし、ものを聞くことなど出来るはずもない。しかし真実に口をきき、ものを聞く本体は誰か?臨済はこの「本体」を見極めることを要求するのであるが、端的に言えばこれこそが生命そのもの。

一体生命の根源から発しない言葉は言葉と言えようか?心を打つのは生命の根源から発した言葉のみであろう。

臨済の説法の相手は常に具体的な生ま身の人間であって、切れば血の出る裸の人間そのもの。時に臨済はこの生命を「活溌溌地」[かっぱつぱっち]とも表現する。

「溌」はサンズイのかわりにサカナヘンを用いることもあるが、そちらの方がより具体的にこの生命の躍動性を表現する。ピチピチとはね回る魚の姿に生命を重ねるのだ。

禅はこのように生命の躍動性を自覚することを求める。

一般に坐禅は心を鎮め、何も考えない無心の境地に至ることを最上とするかのようにとられる。しかし、何も考えないのが最上であれば、人間は石ころになればよい。

一体本来カタチを有しないこころを改めて「無心」と表現すること自体すでに矛盾であるが、その矛盾こそが普段の人間の姿。

禅宗の開祖とされる菩提達磨[ぼだいだるま]は迷える弟子にこう言った。

「その迷う心をここに取り出せ。さすれば治療してやろう」。

まるで一休さんのとんちのよう。「屏風の中の虎を引き出せ。さすれば縄でひっとらえよう」と。

一休は一級の禅者。達磨のこの言葉をもとにして虎の問答が形成されたことは言うまでもなかろう。

すでにしてカタチの無い心をカタチのあるものと誤解して、人は苦悩に苛まれる。臨済も次のように言う。

「諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。……ほんものの修行者なら、決してそんなことはない。ただその時その時の在りようのままに宿業を消してゆき、なりゆきのままに着物を着て、歩きたければ歩く、坐りたければ坐る。修行の効果への期待はさらさらない。なぜかといえば、古人も言っている、『もしあれこれ計らいをして、成仏しようとしたならば、そういう仏こそは生死輪廻のでっかい引き金だ』と」(同上書p.41-42)。

心とはカタチ無きが故に様々なカタチとなって現われ出る。これこそが心の本質。カタチが有ると思い込んでいる、その「有る」を一つ一つ取り払っていった時、一体何が残るであろうか?それこそが生命のはたらきそのものであろう。

人は本来そのままで全てが具わっているのである。オギャーと生まれた時は全くの素っ裸。しかし既に人間に他ならないし、その無垢な姿はむしろ人の心を打つ。死んで行くときも焼かれてしまえば骨が残るだけ。しかし、それは嘘偽りの無い本当の姿。

それなのに、人は求め続ける。それこそが「欲望」に他ならない。「欲望」を無くしきれば、なりゆきのままに着物を着、歩きたければ歩き、坐りたければ坐るだけでよい。

しかし、その根底には、生命がキラキラと輝き、ピチピチとはね回っているのだ。

そんな生命の躍動性を自覚することを、臨済は1000年の昔に高らかに宣言したのである。それは生命の尊厳性を何よりも重視したことに他ならない。

臨済が生きていれば再び叫ぶであろう「いのちを見つめよう、こころを見つめよう」と。


あらゆる場面において、いのちの尊厳性が問われる今こそ。

投稿者 sougen : 18:06 | コメント (0)

2005年11月02日

本堂改修:設計過程・その1

無題.bmp現在の本堂

【本堂改修の趣意】

 当山順心寺は、来年(平成18年[2006])、開創750年目を迎える記念の年になります。

 順心寺は康元元年(1256)に、法灯国師心地覚心禅師を開山として創建されました。しかし創建当初は外護者を持たない小さな庵でした。そもそも西宮は早い時期から開かれた町なるが故、多くの寺院もまたこの地に創建されます。しかし、それらの幾つかは時代を経るにつれて衰退し、廃絶の憂き目に遭います。

 一方、順心寺はそれらの寺院とは対照的に、庶民の信仰を集め、時代を経るにつれて次第に発展して参ります。

 しかし先の大戦の折、順心寺は全焼の憂き目に遭います。漸く本堂が再建されたのは戦後20年が経った昭和40年頃のことです。

 それから既に40年が経過しております。鉄筋コンクリート(RC)の建物の寿命は、通常50年程度と言われております。従って、通常であれば、当山の本堂もそろそろ建替えを検討せねばならない時期が来ているということになります。

 しかし、本堂の建替えということになれば莫大な予算が必要となります。そのためには長期的な計画が必要となるでしょう。

 そこで、昨年、大規模なRCの検査(耐震診断計算・耐震診断現地調査)を実施致しました。その結果、次の通りの回答を得ることが出来ました。


・本建物の経年劣化は差ほど進んではいない。
・本建物は「現行基準と同程度の耐震性がある」建物であると判定出来る。
・しかし、床下、天井裏に、後に影響を及ぼしかねない建設時の不備(手抜き工事)が見られる。


 ここに見える「現行基準」とは、阪神大震災後、より厳しくなった耐震基準のことです。その基準に鑑みても、それ以前に建てられた当山の本堂が、優れた耐震性を持っていることが保証された訳です。

 この結果を見た住職・副住職は胸をなで下ろしました。しかし、気になるのは第三項の手抜き工事のことです。

 確かに調査書に添付された写真を見ると、床下・天井裏のコンクリートの一部に、ジャンカと呼ばれる不備が見られることがわかります。そして、その箇所から既にコンクリートが剥離して、中の鉄筋が剥き出しになっています。RCの建物で一番恐ろしいのは、コンクリートの内部に隠された鉄筋が錆びることです。この点は早急に手直しする必要がありました。

 また当山も、あの阪神大震災によって、境内地の多くに大変な被害を受けました。しかし幸運な事に、本堂は地震を乗り越え、未だ偉容を誇っております。それでも震災の折には、屋根瓦が全部崩れ落ち、内部には大きな亀裂が生じました。

 これらの点は、住職が早急に手を打ち、取りあえずの補修のみ済ませました。しかし根本的な補修は未だ手つかずの状態でした。また、地震以後、本堂の内陣の部分が沈んできているように感じられます。事実、内陣のガラス戸は今にも倒れ落ちそうです。

 もともと、順心寺の境内地は、当山の前を走る現在の鳴尾御影線を越えて、西宮神社の塀の辺りまでありました。しかし、戦争後、区画整理によって寺地の半分程が没収され、境内地の配置も大きく変更せねばならなくなりました。こうした事情から、現在の本堂は、戦前には放生池のあった場所を埋め立てて建設されました。従って、元来地盤の緩い場所ではあった訳です。

 この様な、地盤に関する工事は地震の時には一切行なっていません。この点も今後、この本堂を守っていくに当って不安な点でした。

 そこで、住職以下、来年に迫った開創750年遠諱を円滑に進める為にも、また増加した壇信徒の方々により良く本堂を使用して頂く為にも、ここで一旦補修、並びに改修工事をする必要があると判断致しました。

 こうして、本堂改修に向けての準備が始まりました。


【設計施工の業者の選定】

 こうして本堂改修を決定致しましたが、それからも決めねばならないことは山ほどありました。

 これらの内、当面決定必要なことは、①どの程度の改修を行なうか?②また施工業者はどこにするか?③施工と設計を分離するか否か?の三点でした。

 改修の程度については、設計者を決めた上で相談することとし、まず③から検討を始めました。

 寺院の建設を依頼するには、やはりそれ相応の経験と知識を持った業者に依頼せねばなりません。寺院は特殊な建物だからです。しかし、寺院建設を請け負う業者の多くは、設計施工を一括で請け負う所が多いのが現状です。
 
 しかし、副住職は、こうした設計施工一括で任せることへの不安がありました。一括の場合ですと、どうしても見積もりに不明な点が出てきます。素人に、ここまでの判断をすることは不可能です。こうした理由から、観音堂を建設するにあたっても、設計、施工を分離した上で競争入札という方法を取ることにしました。

 そこで、今回も同様の手順を踏むことを前提としましたが、次に、この場合、どの業者に設計を依頼するかが問題となりました。

 当初は、観音堂の設計を依頼した、「菅野企画設計」(URL:http://www.sugano-k.com/jiin/jiin-garally2.htm)に依頼することも考えました。しかし、菅野企画設計は愛知県の会社です。交通費や設計の過程での相談に、どうしても距離の問題が生じてきます。しかも、今回の本堂改修はあくまで改修ですので、それ程多額の予算を組むことは出来ません。こうして菅野企画設計に依頼することは断念し、地元の業者に依頼することと致しました。

 次に平行してどこの業者に施工を依頼するかも検討していました。しかし、この点についてはすぐに決定しました。それは同じく観音堂の施工を依頼した、「中島工務店」(URL:http://www.npsg.co.jp/)でした。

 中島工務店は、本社が岐阜県の加子母村(現在・中津川市)にあり、支店が神戸市の北区にあります。中島工務店は、産直の東濃ひのきを安価で使用することを売りとし、木材建設に定評があります。また寺院の建設も多く手がけており、経験も豊富です。

 今回の当山の本堂の改修も木材を多く使用することが予想されました。また、観音堂建設の折にも御社の仕事ぶりも見ており、信頼が置けます。

 こうして、今回は競争入札という方法は取らず、中島工務店一社に任せることとしました。

 しかし、設計者がなかなか決まりません。そこで、中島工務店のこれまでの経歴を紹介して頂き、その幾つかを見学することで、気に入った建物の設計者に依頼することとしました。

 こうして出会ったのが「光永設計」の東先生でした。

改修 027.jpg光永設計・東氏

 東氏は、非常に温厚で真面目な方で、仕事も丁寧です。しかも光永設計は当山から非常に近い場所にあります。しかし、東氏は、元来真言宗の寺院を多く手がけ、臨済宗の寺院は今回が初めてでしたので、その点互いに不安が残りました。しかし、その点は相談しながら解決していくこととし、今回の本堂改修を光永設計に依頼することと決定しました。


【設計の過程】
 
 こうして東氏と本堂の改修についての設計の準備に入りましたが、問題が山積していました。

 まず、当山の本堂は、臨済宗の寺院の本堂としては異例の形態をしております。

 一般的な臨済宗の本堂は、通常「方丈」と呼ばれます。

 「方丈」については、我が国に禅宗文化をもたらした中国の宋代の辞書に、「方丈は蓋し寺院の正寝なり」(正寝とは表座敷のこと)とあります。つまり、方丈とは元来住職の居室のことでした。しかし居室とは言っても、単に私的な住空間であるのみならず、公的な接客や修行の場としての機能も兼ねていました。

 そもそも方丈という語は、『維摩経』という経典に、維摩居士という優れた在家の修行者が居した場所が一丈四方であったことに由来します。鴨長明の『方丈記』も、方丈で記されたからその書名が付けられました。(以上、前久夫『寺社建築の歴史図典』東京美術、2002年、p.68参照)

 このような方丈が、何故に禅宗の本堂として使用されるようになったかについては、大規模な寺院の中に存する小さな寺院(塔頭[たっちゅう])の展開に由来すると思われます。
 
 塔頭とは、室町時代、五山派の寺院の住職を勤めた僧侶が、山内に庵を構えたことから発展します。そして、塔頭は、日本独自の施設であったが故、「和様(書院造)」で造られていました。それまでの寺院は、いわゆる七堂伽藍と言われるような、僧侶達が集団生活をすることを前提として造られていました。しかし、塔頭が発展するようになると、禅僧の生活は次第に七堂伽藍から塔頭へと移行するようになります。

 こうして、塔頭の中の方丈が本堂へと形式を変えていったものと思えます。事実、方丈の古い形式を残している、東福寺の「龍吟庵」の方丈は、今でも仏像を祀っていません。

 これに対し、当山の本堂は縦長で、寧ろ七堂伽藍の「仏殿」に近い形態をしています。しかし、厳密に言えば、仏殿とも異なる特殊な形式です。その最も大きな相違が、ご本尊以外の、開山禅師や達磨像をお祀りする場所が内陣の外に出ていることです。

現本堂 024.jpg当山本堂内部

 この点は非常に頭の痛い問題でした。古式に則れば儀式などはやりやすくなりますが、元来そういう形式で造られていないものですので、どうしても無理が生じます。一方現状を維持する方向で考えれば、儀式がやりにくいままです。

 しかし、最終的に決定したのは、現状維持、でした。それは、この本堂を造った住職や、当時の壇信徒総代の方々の総意によって決定された形式である以上、それが当山の歴史であり、尊重すべきものであると判断したからです。

 その上で、当山の本堂の形式に最も近いと思われる、妙心寺の開山堂「微笑庵」をモデルに設計は進みました。

midokoro-kaisandou.jpg妙心寺開山堂・微笑庵


投稿者 sougen : 17:01 | コメント (0)

本堂改修:本堂改修の為に御寄進賜わりました皆様へ

 謹啓
 時下、山茶始開の候、貴家の皆様方におかれましては、益々御健勝のこととお慶び申し上げます。
 さて、この度は当山順心寺本堂改修の為に、御出費多端の折、過分の御寄進賜わりまして、誠に有難うございました。住職以下、衷心より御礼申し上げます。

 工事は11月より開始し、来年の4月中には竣工の予定でございます。完成すれば、面目を一新することとなるでしょう。そして、清々しい気持ちで来年に迫った開創750年を迎えたいと一同願っております。

  順心寺は、皆様の様な篤信の方々によって護持することが出来ますこと、言うまでもございません。今後とも当山順心寺の為に御協力賜わります様、何卒御願い申し上げます。

 なお、今後、本堂改修の様子を、逐一このHP上で公開して参りますので、どうぞ皆様、暖かく御見守り下さい。

 時節柄、貴家の皆様方におかれましては、御身体呉々も御自愛下さいます様、御祈りいたします。
                                                              謹白

投稿者 sougen : 14:20 | コメント (0)