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ご挨拶

この度、廣福山順心寺のホームページ、「順心寺Web」を開設いたしました。御覧下さり誠に有難うございます。

当山順心寺は、法燈国師によって、康元元年(1256)に開かれた禅宗・臨済宗の寺院です。その歴史は古く、2006年には開創750年目を迎えます。

法燈国師は無本覚心(1207-1298)と言い、また心地房との房号も持つ禅僧であります。その覚心が中国で禅を学んだ後、日本へ持ち帰った書に、『無門関』というものがあります。
『無門関』は、禅僧が行なう禅問答の、いわば問題集のようなもので、現在の禅僧もこれを重用し、禅の文献で最もポピュラーなものと言っても過言ではありません。

その序文に次のような言葉があります。

「仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作麼生〔そもさん〕か透らん」

(禅宗は)仏の説かれた言葉の心を宗旨とし、「無門」を入口の門とする。すでに「無門」という以上、ではどうやってその門を通りぬければ良いものか?

この言葉自体は、禅問答のことを言っていてより深い意味があるのですが、現実の場においては次のようにも解せるでしょう。

思うに、現在の街中でどこにでも目に付くものとは一体何でしょうか?それは、今ならコンビニでは無いでしょうか?

ではコンビニとお寺の数を比較した場合、一体どちらが多いと思われますか?あれだけ目に付くのですから、当然コンビニの方が多いのでは無いかと思われがちです。しかし、ある統計によれば、実際はコンビニ約40,000に対し、お寺はなんと約75,000もあるんですよ。

これだけの差があるのに、コンビニよりもお寺の方が目だたないのは、それだけお寺が街に馴染んでいるからでもあるのでしょう。しかし一方で、それだけ皆様に注目されていない証拠でもあるのでは無いでしょうか?

また注意して見てみると、そのお寺の内、一体どれだけのお寺が門を開放しているでしょうか?堅く門を閉ざしているお寺も多いのでは無いでしょうか?「無門を透る」とは言っても、現実の場では門を通りぬけなければ入りようがありません。しかし、門を閉ざしていれば、通りぬけようも入りようもありませんね。

当山順心寺は、開山禅師が将来した『無門関』のこの言葉を実践に移し、様々な活動を通して、広く皆様に門戸を広げて参りたいと思っております。

では、どうぞ「無門」の順心寺へお入り下さい。 

投稿者 sougen : 2005年09月26日 16:28

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