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コラム:謹賀新年

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明けましておめでとうございます。

旧年中は格別のお引き立てを賜り、厚くお礼申し上げます。
本年も倍旧のご法愛を賜ります様、お願い申し上げます。

さて、今年は十二支の「寅」の年。

禅には「虎は生まれて三日にして、牛を食うの機有り」という勇ましい言葉があります。

景気は悪く、社会は混迷しておりますが、虎のような気概でこの厳しい時代に立ち向かっていきたいものです。

2010年01月01日 10:23 | コメント (0)

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コラム:「時間を使って生きる」

十二時を使い得たり

これは、唐代の禅僧、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)の言葉です。
全体で以下の通りとなります。

問う、「十二時中、如何が心を用いん」と。
師云く、「你は十二時jに使わる、老僧は十二時を使い得たり。你、那箇の時をか問う」と。

ここに見える「十二時」とは、今の「十二時」のことではなく、二十四時間のことです。

ここで趙州に質問をした人は、「一日をどのような心掛けで生きればよいのか」と問うています。それに対して趙州は、「お前は時間に使われて生きているが、わしは時間を使いこなして生きている。お前は一体、どちらの時間のことを聞いているのか」と答えます。趙州は、質問者に時間を使いこなして生きることが肝要だと言いたかったのでしょう。

さて、人はみな同じ一日二十四時間の中で生きています。

しかし、有意義に一日を過ごす人もいれば、そうでない人もいることでしょう。人によって一日の価値は異なるものです。ではどうしてそのような差が生じるのでしょうか?

「光陰矢のごとし」という言葉がある通り、時間は非情にも刻一刻と過ぎていきます。気がつけば白髪、なんてこともあるかもしれません。

時間はみな均等に与えられています。それを無駄に使うか、有意義に使うかは本人の心掛け次第です。

与えられた瞬間瞬間を真剣に、懸命に生きること、それが時間を使いこなす生き方と言えましょう。そもそも、与えられた一日を、本当に懸命に生ききっていれば、「一日をどのような心掛けで生きていけばよいのか」というような質問が頭に浮かぶことさえないはずです。

質問者は、無為に過ごす一日を後悔して趙州にこう問うたに違いありません。しかし、まさに今際の際にある人にとっては、そんな後悔さえ虚しいものです。

「時を得る者は栄え、時を失う者は亡ぶ」(列子)という言葉もあります。

一瞬一瞬に「主人公」として生きて行くことが肝要です。


2008年06月22日 18:16 | コメント (0)

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コラム:犀の角のように

四方のどこにでも赴き
害心あることなく
何でも得たもので満足し
諸々の苦難に堪えて
恐れることなく
犀の角のようにただ独り歩め
      
                (『スッタニパータ』)

『スッタニパータ』は、仏教の多数の諸経典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である(中村元訳『ブッダのことば、スッタニパータ』岩波文庫、より)。

ここで挙げたものは、岩波文庫本で、42篇目に当たります。

ここに見える「犀の角」とは、動物のサイの角のことで、「独り歩む修行者」を指します。中村元氏によれば、「〈犀の角のごとく〉というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよの意である」と定義されています。

『スッタニパータ』では、犀の角のような生き方を、40篇の詩でたたみかけるように説いていきます。ここでは、そのいくつかを挙げてみましょう。

(35)あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく
    あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく
    また子を欲するなかれ
    況や朋友をや
    犀の角のようにただ独り歩め

(39)林の中で
    縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように
    聡明な人は独立自由をめざして
    犀の角のようにただ独り歩め

(40)仲間の中におれば
    休むにも、行くにも、旅するにも
    つねに人に呼びかけられる
    他人に従属しない独立自由をめざして
    犀の角のようにただ独りあゆめ

(52)寒さと暑さと
    飢えと喝(かつ)えと
    風と太陽の熱と
    虻と蛇と
    これらすべてのものにうち勝って
    犀の角のようにただ独り歩め

(68)最高の目的を達成するために努力策励し
    こころが怯むことなく
    行いに怠ることなく
    堅固な活動をなし
    体力と智力とを具え
    犀の角のようにただ独り歩め

(75)今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び
    また他人に奉仕する
    今日、利益をめざさない友は得がたい
    自分の利益のみを知る人間はきたならしい
    犀の角のようにただ独り歩め

………

「犀の角のように」独立して生きていくこと、これは修行者に限らず、一人の人間として理想的な生き方と言えるでしょう。

しかしどうでしょう?最近は、いい年をしていても、親離れ、子離れできず、互いに依存して生きている方が多いように見受けられます。さらには周囲の人にも依存し、甘え、過大な要求をして、それがかなわなければ憎しみを抱く、そんな人もいます。

人はみな孤独を恐れます。しかし、真に自立した人は、孤独を受けいれ、孤独に徹して生きて行きます。そして、孤独に徹した人は、孤独であるが故に、他者に対して優しさを与えることができます。そして結果的に、人に愛され、孤独ではなくなります。

犀の角のように、高潔に、気高く生きたいものです。

2008年06月14日 18:46 | コメント (0)

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コラム:「真っ直ぐに行く」

驀直去

この言葉は、「まくじきこ」と読んで、「真っ直ぐに行け」という意味です。

『列子』の中に次のような逸話が出ています。

楊子という人物の隣人が、ある時、飼っていた羊を逃がしてしまった。そこで、自分の家の者を引き連れて羊を追いかけた。しかし、岐路に出くわし、羊の逃げた方向がわからずに、遂に諦めてしまった。

とても単純な話です。この話は、他に『准南子』にも見えます。

人は往往にして岐路に出くわすと、行き先を見失って戸惑うものです。しかし、目標がはっきりしていれば、途中の岐路でたとえ間違った道を選んだとしても、結局は目的地に行き着くものです。

大切なのは、その時に自分の選んだ道を疑わずに一心不乱に進むことです。迷いを起こさないことです。

些末なことにとらわれて、根本を見失っては元も子もありません。

2008年06月06日 16:37 | コメント (0)

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コラム:「適材適所」

夫(そ)れ物には用うる所あり、
      之(これ)を用うるに各々宜しき有り。

これは唐代の寒山(生没年不詳)の詩を集めた『寒山詩』の中に見える言葉です。

全体は以下の通りです。

夫(そ)れ物には用うる所あり、之(これ)を用うるに各々宜しき有り。
之を用うるに若し所を失わば、一欠(いっけつ)し復(ま)た一虧(いっき)す。
鑿(あな)を円くして枘(ほぞ)を方(しかく)にす、悲しい哉、空しく爾(しか)為せるのみ。
驊騮(かりゅう) 将に鼠を捕らえんとするも、跛(は)たる猫児(ねこ)に及ばざらん。

【訳】
さて物にはそれぞれ使い道があり、使うにしてもそれぞれ使い方がある。
物を使うのに使い道を間違えたなら、やりそこなって事を欠く。
円い穴に四角なほぞをはめようとしたら、悲しや無駄骨折りをするばかり。
名馬が鼠を捕ろうとしてみても、脚の不自由な猫にもかないっこない。

(入矢仙介・松村昂『禅の語録13・寒山詩』p.76~77参照)

どんな物にも使い道と使い方というものがあります。

たとえばスプーンで麪を食べようとしても、うまく麪はつかめませんし、フォークでスープを飲もうとしても、歯の間からこぼれ落ちてスープを飲むことはできません。

寒山は、このような例えとして、円い穴に四角いほぞ(木材・石材などを接合するときに、一方の材にあけた穴にはめこむため、他方の材の一端につくった突起)をはめ込もうとしてもうまく入らないし、いくら脚の速い名馬であっても、小さな鼠を捕らえるには、猫の方が優れていると言っています。

事々、適材適所というものがあって、それを踏み外すと全ての物は全く無意味なものとなります。

こんなことは冷静に考えれば当たり前のことでしょう。

しかしその当たり前のことを、見失って生きてはいないでしょうか?

2008年05月31日 19:39 | コメント (0)

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コラム:「吉凶」

吉凶は、人によりて日によらず。

これは吉田兼好(1283~1350)の『徒然草』の中の言葉です。

この言葉には前段があります。

「〈吉日に悪をなすに必ず凶なり。悪日に善を行うに、必ず吉なり〉といえり。吉凶は人によりて日によらず」(吉日だからといって、何でも良い結果になるという訳ではなく、悪いことをすれば、かならず悪い結果となる。反対に凶の日に善いことをしても、善い結果となるものだ。吉凶というものは、人の行動によるものであって、決して日によるものではない)。

さて、日本人は、古来、吉凶というものを非常に気にします。今でも、「結婚式は大安に」とか、「お葬式は友引はダメだ」とかが普通に語られ、むしろそれは常識人の嗜みと言っても良い程に浸透しています。

しかし、本当に結婚式は大安でなければならないのでしょうか?葬儀は友引に行ってはいけないのでしょうか?


吉田兼好の言葉は非常に合理的なものです。

丙午に生まれた女性は禍を呼ぶなどという迷信もありますが、丙午に産まれる子供を妊娠した場合、その子を産んではいけないのでしょうか?そんな馬鹿なことはありません。けれど、このような迷信を気にしてか、丙午の年には出生率は格段に減少するようです。

また、仏事に関するものでは、お逮夜が三月にまたがる場合は三十五日に満中陰を行わねばならない、というものもあります。この迷信の根拠はあまりはっきりとはしないようですが、現在よく言われるのは、「不幸が身につく」からというものです。

しかし、月末に亡くなった方の場合、必ず逮夜は三月にまたがります。亡くなった日が月初と月末との違いだけで、不幸が遺族の身につく、身につかないなんてことがあるでしょうか?何ともおかしなことです。

本来、吉凶というのは、天に任せるものではなくて、自分の行動に原因のあることの方が多いのではないでしょうか?

悪い行為をした人に悪い結果が訪れるのは当然のことです。またその反対も同様です。吉凶を日のせいにするなど、何とも無責任なことです。

仏滅に結婚すれば、誰もが不幸になるのでしょうか?そんなことはありませんね。結婚生活が良いものになるか、悪いものになるかは、あくまで夫婦二人の努力次第です。大安に結婚したって、離婚する人は山程います。

こんなことは当たり前のことでしょう。物事は本人の努力次第でいくらでも好転できるはずです。

大切なのは、自分が主体的に、正しく生きているかどうかということです。正しく生きている人にとっては、大安も仏滅も関係はないでしょう。

迷信なんかに振り回される心の弱さが問題なのです。


2008年05月23日 19:12 | コメント (0)

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コラム:「他の財を数える」

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日夜、他の宝を数えて
     自らは半銭の分なし。

これは、曹洞宗の道元禅師が著した、『学道用心集』の中の言葉です。

他人の財産をいくら数え上げたとしても、それによって自分の財産が増すことはない。そんな行為は虚しく無益なものだ、という意味です。

さて、人は往々にして他人の懐具合が気になるものです。


「あの人はどうしてあんなに裕福な暮らしをしているのか」とか、「おのお宅はあんなに立派だけれど、一体、お給料はどれくらいなのか」などという想像や、うわさ話の一つもした経験はありませんか?

ひどいものになると、「あの人はあんなに立派な家に住んでいるのだから、きっとろくな事をしていない」などという人もいます。そんな思いや言葉は、なんとも悪意に満ちたものです。

しかし、そんな風に他人の財産を気にしたところで、自分の財産が増える訳でもなく、暮らしが良くなる訳でもありません。なんとも虚しく無益なことです。

そんなことを考えている暇があれば、仕事に励んだ方が、ずっと自分にとって有益でしょう。学問に励んだ方が、余程身になります。

またこうも言えます。

口先で、いくら立派な古人の名句・名言を並び立てたとしても、その人の行いがその言葉に適うものでなければ、何の意味もありません。他人の褌で相撲をとっているだけのことです。この場合、「他の宝」は、「古人の名句」ということになります。

学道でも同じことです。山程の知識を頭の中に詰め込んだとしても、その知識を本当に自分の生活の中で生かすことができなければ、宝の持ち腐れです。

問題は、その人が、如何に自分の心を、人格を磨こうと努力するかどうかということです。それこそが、自分の財産を増す、ということなのです。もっと、自分自身に目を向けるべきです。

いい加減、他人の懐を気にするのはやめたらどうですか?

それだけで、きっと心が軽くなるはずです。

2008年05月17日 19:19 | コメント (0)

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コラム:主人公に生きる

随処2.jpg

随処に主と作れば
   立処、皆な真なり

これは、中国の唐末の頃に活躍した、臨済義玄(?~866)の言葉です。

たとえ何処にいたとしても、自分が「主人公」でいることができれば、自分の立っているその場所が真実となる、という意味です。

では「主人公」とは何でしょうか?

「主人公」とは、一般に劇や映画の中心人物を言いますが、ここでも同じような意味でしょう。ただしここでの「劇」とは、人生のことです。あなたはあなたの人生の「主人公」になり得ていますか?

時間に追われて自分を見失っていませんか?お金の奴隷になっていませんか?はたまた、自尊心や虚栄心に振り回されていませんか?

こうした生き方では、とても人生の「主人公」になっているとは言えません。あなたが本当にあなたの人生を生ききってこそ、本当の「主人公」と言えるのです。

臨済はこう言います。
「君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ」(岩波文庫『臨済録』p.51)。

どんな場所にいても、「自分」を見失わなければ、あなたはその場の「主人公」です。

ではどうすれば良いのでしょう?それは、その場その場のことに集中して生きて行くこと、その状況と一つになり切って余計なことを思わないことです。

仕事をしている時は、仕事になり切る、家事をしている時は家事になり切る、夫なら夫として、妻なら妻としてその本分を尽くして生きて行くこと。その時、あなたは「主人公」に生きていると言えましょう。

あらゆる状況を無心に受けいれ、その中で快活に生きていくことができれば本当の自由です。

江戸時代の良寛さんは、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬるがよく候。これはこれ災難をのがる妙法にて候」(災難に逢えば、逃げだそうとせずに災難に立ち向かいなさい。死ぬ時にはジタバタせずに死ねばよろしい。これこそが災難から逃れる妙法なのだ)と言いました。

これこそまさしく「随処に主となる」生き方です。あれこれ考えても仕方がありません。「今」を生ききれば、自然と「立処皆な真」となることができる筈です。

2008年05月10日 17:03 | コメント (0)

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コラム:「過ち」

過ちて改めざる、是を過ちと謂う

これは『論語』の中の言葉です。

人は誰でも失敗をするものです。完璧な人間など何処にもいないでしょう。

大切なのは、自らの失敗に対する対応です。失敗は失敗と素直に求め、それを受けいれた上で、改める。そうして二度と同じ失敗をしないように心掛ける。これが正しい態度と言えましょう。

反対に、自らの失敗を決して認めようとはせず、体面を取り繕ったり、弁解をしたり、ひどい時には他人のせいにして済ましてしまう。こういう態度では、人は何も変わりません。きっと同じ間違いを何度もくり返すことでしょう。これが本当の過ちというものです。

自らの失敗を認めるということは、言うのは簡単ですが、実行に移すのはなかなか難しいものです。ましてやプライドが高く、我が強い人にとっては尚更でしょう。

常に自らの行動を点検し、悪い点があれば深く反省をする。そうしたことをくり返すうちに、人は自然と「素直な自分」のままで生きていくことが出来るでしょう。

2008年05月04日 17:28 | コメント (0)

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コラム:「石の上にも十二年」

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最下鈍の者も、十二年を経れば、必ず一験を得。

これは、日本天台宗の最澄(伝教大師・767~822)の言葉です。

一つのことをやり遂げる決意を促した有名な諺に、「石の上にも三年」というものがありますが、最澄の言葉は、それよりも9年も長い。それは、「最下鈍」の者だからでしょう。


ともかく、この言葉は、「石の上にも…」と同じ、あるいはそれ以上に、一つ事を倦まず休まず続けていくことの困難さ、大切さを説いたものです。

さて、お釈迦さまの弟子に、周利槃特(しゅりはんどく)という人物がいました。彼はお釈迦様の弟子の中で最も愚鈍な者だったといわれています。どれ位、愚鈍であったというと、しばしば自分の名前も忘れる程だったそうです。

そんな周利槃特ですから、お釈迦様の教えなど覚えられるはずもなく、修行は一向に進みません。それを見かねたお釈迦様は、周利槃特に一本の箒を与えて、常に「塵や垢を除け」と唱えながら、お寺の掃除を言いつけました。

周利槃特は、愚鈍ではありましたが、生来、とても生真面目でした。お釈迦様の言いつけを守り、「塵や垢を除け」と唱えながら、一心に掃除を続けました。

そうして何年、何十年もの月日が流れ、ある日、ついに周利槃特はお悟りを開くことができました。まさに「苔の一念、岩をも通す」です。

また、明治時代に、洞宗令聡(とうじゅうれいそう・1854~1916)という禅僧がいました。洞宗もまた、周利槃特と同様に愚鈍な人物でした。

しかし、洞宗は、自分の愚鈍さをよく知っていました。そして、洞宗は、自分のような愚鈍な者は人並み以上の修行をしなければ一人前にはなれないと、陰徳の行を積むことを自らに課しました。

例えば夜中、皆が寝静まった頃、洞宗は修行仲間の草履や下駄の鼻緒を修理し、食事をするときには進んで給仕を買ってで、食事が終わった後は、後片付けに余念がありませんでした。

そして、仏前に向かって、常に「願わくば私をして陰徳を積ましめたまえ」と誓ったと言います。

その甲斐あって、やがて洞宗は師に認められて師の後を嗣ぎ、引き継いだ寺院を師の時代以上に繁栄させました。

このように、たとえ愚鈍な者であっても、一つのことを心に決めて、それをやり通すことができれば、必ず何らかの結果を得ることができるものです。

しかし、小利口な人物は、楽をすることばかりに頭を働かせて、結局は大成しないものです。たとえ愚鈍ではあっても、一つのことをやり遂げる根気があれば、小利口な人物よりも良い結果を残すに違いありません。

どんなことでも投げ出さなければ、きっとその先には美しい景色が広がっていることでしょう。


2008年04月27日 17:40 | コメント (0)

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コラム:「一枚の菜っ葉」

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一茎菜(いっきょうさい)を拈(と)りて
      丈六身(じょうろくしん)と作(な)す

これは、道元禅師の『典座教訓(てんぞきょうくん)』の中の言葉です。

『典座教訓』の、この言葉が見える一段は次の通りです。

「典座(=料理番)が、心をはげましてつとめる、道を求める心のはたらきの様子というものは、昔のすぐれた徳のある人たちが、たとえば三銭のお金でごく普通の料理を作ったとしても、いま私は、同じ三銭のお金でもすばらしい料理を作ってみせるというようなものである。このようなことをするのは大変難しいことである。…一本の野菜を手に取り、一丈六尺(=360cm)の仏の身として用い、じゅうぶんに活用し、また一丈六尺の仏身を一本の野菜にこめて、これを大切に用いることができるのは、これこそ本当の神通力というものであり、また典座の自由自在なはたらきでもあり、仏としての仕事である教化でもあり、またすべての人々を利益(=たすける)することでもある」(講談社学術文庫『典座教訓・赴粥飯法』p.51~52)。

飽食の時代と言われる昨今、一日に大変な量の食材が生産され、また確実にその何割かが残り物として廃棄されています。

また、ファーストフード店やコンビニエンスストアでは、ほんの少し賞味期限が過ぎたものでもゴミとして捨て去られていきます。その一方で、環境保護が声高に叫ばれてもいます。何ともおかしなことです。

そんな時代ですから、家庭での料理も、食材は粗雑に扱われているのではないでしょうか?皆が皆、見かけが綺麗で高級な食材を口にしたがる時代です。一見綺麗に見える野菜でも、ちょっと汚れた所を見付ければ、すぐにゴミ箱行きになっていることでしょう。

ここで引用した、道元禅師の『典座教訓』の中に、次のようにも言われています。

「たとえ粗末な菜っ葉を用いてお汁物やおかずを作るときでも、これを嫌がったり、いい加減に扱ったりする心を起こしてはならないし、また、たとえ牛乳入りのような上等な料理を作る場合でも、それに引きずられて喜んだり、浮かれはずんだりする心を起こしてはならないといわれている。…一見粗末な品物を扱うことがあろうとも、決して怠りなまけるような心を起こすことなく、また、上等な材料を用いて料理を作ることがあったとしても、一層おいしい料理を作るようにつとめるのである。決して品物のよしあしに引きずられて、それに対する自分の心を変えたり、人によって言葉遣いを改めたりしてはならない」(『同上書』p.47)。

資本主義の社会では、お金が大変な価値を持ちます。お金があれば、どんなものでも買えることでしょう。食材で買えないものは無いほどです。しかし、それで本当に良いのでしょうか?何か大切なものを失っていないでしょうか?

近年、学校給食で、子供に「いただきます」と言わせないでくれと抗議する親がいるそうです。理由は、お金を払っているのだから給食を貰うのは当然の権利であり、「いただく」訳ではないからだそうです。

何とも情けないことです。

小説家の水上勉氏は、『土を喰う日々』(以前に「おすすめ書籍」の中で紹介しております)という書の中で、次のように言っています。水上氏は、少年時代、禅僧の卵として禅寺の中で暮らしておりました。それ故、禅に造詣が深い。

「道元さんという方はユニークな人だと思う。『典座教訓』は、このように身につまされて読まれるのだが、ここで一日に三回、あるいは二回はどうしても喰わねばならぬ厄介なぼくらのこの行事、つまり喰うことについての調理の時間は、じつはその人の全生活がかかっている一大事だといわれている気がするのである。
大げさな禅師よ、という人がいるかもしれない。たしかに、ぼくもそのように思わぬこともないのだが、しかし、そう思う時は、食事というものを、人にあずけた時に発していないか。つまり、人につくってもらい、人にさしだしてもらう食事になれてきたために、心をつくしてつくる時間に、内面におきる大事の思想について無縁となった気配が濃いのである」。

先の親は、お金でしか物事を考えられない心の貧しい人なのでしょう。きっと、その方の家の食卓には、スーパーでの出来合いのものが「豪勢に」並んでいるに違いありません。そんな環境で育てられた子供が、果たして正しく成長するでしょうか?

また、水上氏は、自らが育てた大根が、やせ細り、曲がった粗末なものだったことを通して次のように話しています。

「ぼくの今年の軽井沢の大根ときたら、出来がわるかったのだ。忙しかったために、よく畝を耕さなかったせいもあるが、天候のかげんもあって野菜も面喰らったのだろう。…ぬいてみると、肩のあたりはそうでもないがひょろりとやせて、尻尾はトカゲのそれのように細い。
〈ダメだなあ。春から楽しみにしていたのに〉とぼくは客にいった。〈これじゃ、おろしぐらいにしかなりませんね〉と客もいう。なるほど、輪切りにして、油揚げと煮てみるのだが、どこやらシコリとにがみがのこる。芯にスもある。これでは客に出せぬ。そこでいわれたとおり、おろし金ですってみる。
なんと辛かったことよ。しかし、その辛さは独得の味だった。めしにのせると甘くなって舌をひたした。昔の大根だった。いや、ぼくらがわすれてしまった大根の味なのだった。いまの大根は、なりは立派だが水っぽくてそっけない。こころみに、それをおろして見給え。どこやら薄味の、間の抜けたところがないか。ぼくは、一見してはなはだ出来のわるい姿とみた大根が、しっかりと、辛さだけを、独自に固守していたことに感動した。都会人にすれば、姿もわるいから、捨ててしまうぐらいのものだろう。もっとも、お百姓が、こんな大根を荷出ししていては、市場も買うまい。規格にはずれる駄物大根に、本当の味がのこっていたと知るのはことしのことだが、この時も、前記の『典座教訓』を思った。まことに〈一茎草を拈じて宝王刹を建て、一微塵に入って大法輪を転ぜよ〉である。出来のわるい大根を、わらう資格はぼくらにはない。尊重して生かせば、食膳の隅で、ぴかりと光る役割がある。それを引き出すのが料理というものか」。

一見、使い物にならないような野菜でも、すこし工夫すれば大変に価値のあるものとなります。野菜でさえそうです。たとえば人間ではどうでしょうか?

日常の営為たる料理のことといって軽んじてはいけません。些細なことから、とても多くのことを学ぶことができるのです。


2008年04月20日 16:10 | コメント (0)

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コラム:「学ぶことの意味」

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「心を直さぬ学問して 何の詮かある」

これは叡尊(えいぞん)の『聴聞集』の中の言葉です。

叡尊(1201~1290)は、鎌倉時代中期に活躍した律宗の僧です。戒律を復興し、奈良の西大寺を中興し、殺生禁断・慈善救済・土木事業などを行って、被差別者から天皇にいたるまでの幅広い人びとから、篤い帰依を受けた仏教者です。

さて、叡尊の上記の言葉について考えてみましょう。

叡尊は、上記のように「心を正さない学問に、いったいどんな価値があるものか」と問いかけます。

では、そもそも「学問」とは一体何でしょうか?

一般に、学問とは「知識を得ること」と解されています。事実、学校では、九九を覚え、公式を覚え、漢字を覚え、単語を覚え、年号を覚えるなど、知識を増やすことを中心に学びます。

しかし最近では、こうした「知識を増やす」教育を「詰め込み」と批判し、「ゆとり教育」を実施しましたが、かえって子供達の学力の低下を招いたとして、現在では見直しの方向へ向かっています。

さて、学問の定義は様々だと思います。知識を増やすことを否定して、ゆとり教育が実施されましたが、知識を増やすことも必要なことです。それは、知識が増えることで様々なことを知るようになり、またそれによって考える力を増進させることにもつながるからです。そもそも単語を知らなければ英会話もできませんし、漢字を知らなければ本も読めません。

しかし、本当に学問をする「目的」とは何でしょうか?良い学校に入ることでしょうか?良い会社に入ることでしょうか?

確かにそれらも立派な目的ではあります。良い学校では、良い仲間や教師に出会えます。良い会社に入れば、社会的にも認められ、生活もそれなりに余裕のあるものとなるでしょう。

一方で、良い大学を出て、良い会社に入った人が、悪事に手を染めたり、ストレスで精神的な病に罹ることも近年、珍しくはありません。一般に良い成績を収め、周囲から「良い子」に見られていた子供が、その心の中に闇を抱えていて、驚くような事件を引き起こすことも、最近目だつ傾向です。彼らにとって、学問とは一体、何だったのでしょう?

叡尊は、学問をする目的を、明確に「心を直すこと」と定義します。叡尊は、学問をする人の心を問題とするのです。

人は、知識を得ることで、より人格が陶冶されなければなりません。正しく生きる道を学ばなければなりません。漫然と良い学校や良い会社に入ることが人の幸福につながらないことは言うまでもありません。人生の目的は他にあると言えましょう。

中国の宋代の禅者の大慧宗杲(だいえそうこう)は次のように言っています。

「高級役人で、たくさんの本を読んでいる(=知識を詰め込んでいる)人は迷いが多く、あまり本を読んでいない(=知識を詰め込んでいない)人は迷いが少ない。役人として出世しない人はエゴが弱く、出世する人はエゴが強いものだ。俺は頭が良いんだと自分で言うが、わずかでも利害がかかわることとなると、頭の良さはどこかへ行ってしまい、ふだん読んでいる本の一字も役に立たない。それは学問の習いはじめから間違っていて、富貴を勝ち取ろうとするばかりだからなのだ。〔しかも、そのうちで〕富貴を〔現実に〕手に入れる人は一体どれ程いることか。ぜひ志向をクルリとかえて、自分の脚下(=心)に向けなさい」(『大慧書』「呂郎中に答える〔手紙〕」)。

大慧の指摘は明確です。頭が良いと自負する人ほど、利害得失にかかわることに出くわすと、自分を見失うものなのだと、そして、その原因は、学問を志した態度に問題があるのだと言っているのです。

人間として身に付けねばならない優しさや正しさなど、様々なことを経験し、学んでいくことが、学問の本当の姿ではないでしょうか?

知識偏重の教育体制を反省して施行された「ゆとり教育」も、本来はそちらの方向を目指したのでしょう。しかし「よい学校に入る」だけを目的とする学問への姿勢が改まらないまま施行されたために、「ゆとり教育」は見直しを余儀なくされたのではないでしょうか?

今こそ、心を直すという学問本来の在り方に立ち返る必要があるのではないでしょうか?

2008年04月13日 14:33 | コメント (0)

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コラム:「我を生む者は父母、我を成す者は朋友」

これは唐代の禅者、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉です。

百丈懐海は、「清規」(しんぎ)と呼ばれる、修行僧達の生活規律を定めた禅者として有名です。

また「一日作ささざれば一日食らわず」という言葉を残したことでも有名です。

百丈和尚は、老齢になっても一日たりとも労働をやめようとはしませんでした。そのような百丈和尚の身体を心配した弟子達は、こっそりと百丈和尚の仕事道具を隠してしまいました。流石の百丈和尚も、道具が無ければ労働は出来まいと、弟子達はそう考えたのでしょう。なんと師匠思いの弟子達でしょうか。

しかし弟子達の意に反して、百丈和尚は食事を取らなくなりました。そこで口にしたのが、上記の言葉です。

禅は日常を大変に重視します。日常の中に悟りに到る契機が転がっていると考えるのです。いえ、日常生活を正しく生きることが、そのまま悟りの姿に他ならないとまで言います。

百丈和尚は、身を以て弟子達にそのことを伝えようとしたのでしょう。

さて、今週の言葉です。

この言葉は、百丈和尚が、いつまで経っても大成しない一人の弟子が、友人の誘いで別の師匠の下へ移ろうかどうかと迷っていた時に発した言葉です。そして、この言葉で弟子は友人の誘いに従うことを決意し、やがてひとかどの人物となって行くのです。

この弟子は、百丈和尚とは残念ながら縁が無かったのでしょう。師と弟子との間にも相性というものがあるのです。しかし、それを修行の途中で互いに認めることは、なかなかに困難です。しかし、百丈和尚は、この弟子が自分とは縁が無いことを悟って、別の師の元に送り出したのです。なんと寛大なことでしょう。

自らをこの世に生みだしてくれたのは両親です。そして、一定の年齢まで暖かく庇護して育ててくれるのも両親でしょう。これは修行上でも同じことです。この場合、親とは師匠のことです。

しかし、ある一定の年齢になれば、子供や弟子は、親や師の元から離れねばなりません。いつまでも親や師の元にいれば、甘えも生じるでしょうし、いつまで経っても独り立ちできません。一方、親や師の側も、いくら可愛い子供や弟子であっても、一定の時期がくれば手放せばなりません。それがむしろ愛情なのです。親は親で、師は師で独り立ちせねばならないのです。

この言葉は、むしろ独り立ちした、あるいは独り立ちしようとしている人へ向けた言葉と言えるでしょう。

ここでいう「朋友」とは、具体的には修行上の仲間のことです。むしろライバルと言っていいような仲間です。

どんな道に進んでも、友人はできます。しかし、本当に自らを磨いてくれる友人とは、傷をなめ合うような仲間ではなく、むしろお互いに切磋琢磨し合うライバルと呼ぶべき仲間でしょう。

そんな友人は、優しい言葉だけではなく、時には忌憚なく厳しい言葉も浴びせかけることでしょう。しかし、それが本当の思いやりなのです。

4月は新しい出会いの多い時期です。たくさんの人との出会いに感謝すると共に、その中から、是非とも一生涯つき合って行くことの出来るような、そんな友人を探し出しましょう。

しかし、それには、まずは自分が懸命に努力することが必要です。いい加減な生き方をしていれば、いい加減な仲間しか周囲には集まってこないでしょう。精一杯努力したり、精一杯悩んだりする中で、本当の友人は見つかるものなのです。

友人は、何ものにも代え難い、人生の宝なのですから。

2008年04月06日 17:23 | コメント (0)

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コラム:「初発心の時、便ち正覚を成ず」

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これは『華厳経』の中の言葉です。

仏道修行にあって、初めて入門することを決意したその時に、すでにそのゴールであるお悟りは成就するのだ、という意味です。初心の大切さを説いた言葉です。

さて、私が禅僧になるための修行を積むために修行道場に入門したのは、18年前の、ちょうど今頃のことでした。

禅の道場で修行するためには、厳しい入門の儀式をくぐらねばなりません。まず、早朝、道場の玄関に入ってその玄関先で頭を下げ、「たの~みま~しょ~う」と大声で入門を請います。しかし、不安な気持ちが先にたって、声は震え、なかなか肚から声が出ません。すると、たちまち兄弟子から「声が小さい!」と怒鳴られます。その声の大きさに、こちらは身のすくむ思いです。

今度は兄弟子に負けまいと更に大きな声で「たの~みま~しょ~う」と声をかけ直します。しかし、中には兄弟子の一喝に圧倒されて、全く声が出なくなる者もいます。声を出しても、肝を冷やして更に声が小さくなる者もいます。すると兄弟子に何度も怒鳴られ、その度にやり直しをさせられます。

幸い、私の場合は2度目で許されました。許されると、奥から「ど~れ~」の大声と共に一人の兄弟子が現れて入門の願書を受け取り、道場の最古参の者にその願書を取り次ぎます。

しかし、これで入門が許されるかと言えばそうではありません。最古参の者は、入門者に対して、「この道場は今、修行僧で一杯だから、悪いことは言わないから他所に行きなさい」と、にべもなく突き放します。けれど、それでへこたれてはいけません。入門を許されるまで、玄関先で頭を下げ続けなければならないのです。

私が修行したのは、京都・嵐山の天龍寺です。3月~4月初旬の嵐山は、日中はそれなりに暖かいものの、朝方や日が暮れた後などはまだまだ非常に冷たい。

冷たい風が衣の裾から入って来て、身体がガタガタと震えます。また時間が経つにつれ、当然のことながら、同じ姿勢を維持することがつらくなります。しかし、それでも頭を下げ続けねばならないのです。

時折、兄弟子がやって来て、「まだこんな所にいたのか!修行の邪魔になるから出て行け!」と大声で怒鳴り、襟首を引っつかんで玄関の外に追い出します。しかし、それは入門を請う者にとって、わずかな休息でもあります。休息が済むと再び同じ姿勢で入門を請い続けます。これが2日間続くのです。

禅の道場では、この儀礼のことを「庭詰め」と言います。

こうして2日間の玄関先での庭詰めが終わると、今度は個室での3日間の坐禅です。坐禅など経験したことの無い者にとって、いきなりのまる一日の坐禅は、まさに苦痛です。また、個室だからと言って手を抜くことはできません。いつ兄弟子がやって来て、雷を落とすかわからないからです。そして、「何もしない」ということが、こんなにも辛いのかと実感する日々でもあります。

こうして5日間の入門儀礼を通過して、初めて修行僧の一員になるのです。

当然のことながら、これは長い修行のたった5日間でしかありません。私の場合、道場に5年間在籍していましたから、1826日分の5日です。

しかし今、思い返してみると、あの5日間の如何に濃密であったことか。全てのことが新しく、全てのことが戸惑いでもあったあの5日間。とても冷たく、けれどその中に少し温みが感じられたあの空気。道場に入門した時期がやって来ると、あの時の「空気」の感覚が、今でも鮮明に蘇ります。一度、着物を脱いでしまえば自分で着直すこともままならない程に不出来な「禅僧のタマゴ」でしたが、誰もが初めはそんなものなのでしょう。

私の禅僧としての原点はあの5日間にありました。

今でも同時に入門をした修行仲間は、我々が入門をしたその日に電話をしてきます。そして、お互いに初心を思い返します。

どんな世界に跳び込むにせよ、初めはどんなことも新鮮だと感じる一方、辛いことも多いことでしょう。しかし、それを通過して初めて一人前になっていくのです。そして、そこで感じたことが、生涯の礎となるのです。

さあ、今週から4月です。新たな一歩を踏み出す方も多いことでしょう。その一歩が、やがてはゴールへと導くのです。初心を決して忘れることなく頑張って下さい。

2008年03月30日 20:07 | コメント (0)

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コラム:今週のことば

身の咎(とが)を己(おの)が心に
      知られては
  罪のむくいを
     いかがのがれん

(自分の過ちを自分の心に知られた以上、その罪の報いからどのようにして逃れることができようか?)

この言葉は、至道無難(しどうぶなん・1603~1676)禅師の言葉です。

誰も見ていないからと、自分の過ちをごまかした経験はありませんか?

例えば、煙草やゴミを町中に捨てたことはありませんか?他人の物を黙って拝借したことはありませんか?

誰かが見ていれば多少やましさもあるでしょうが、誰も見ていなければ、人はつい過ちを犯しがちです。

しかし、いつも自分の行動を見ている人がいます。それはあなた自身です。他人はごまかせても、自分をごまかすことはできません。

中国の後漢の楊振という人が贈賄の申し出を固辞し、「天知る、地知る、子知る、我知る(たとえ誰も見ていなくとも、天と地は知っているし、私も、そして贈賄をするあなたもこのことを知っているではないか)」と言いました。

「この程度なら…」、人は軽い過ちなら自分でさえもごまかそうとします。しかし、軽い過ちをくり返すことによって、より大きな過ちに対しても無神経になっていくものです。過ちに軽い重いは関係ありません。自分の心にとっては、みな等しく「罪」に他ならないのです。

人は、自分の中の「正直な心」に従って生きていくべきです。


2008年03月16日 19:39 | コメント (0)

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コラム:今週の言葉

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今日わかれ
  明日はあふみ(会う身)と
    思へども
量(はか)りがたきは
   命なりけり
 

これは大愚良寛(1758~1831)の言葉です。

今日、「さよなら、またね!」と別れたとしても、明日また無事に会うことができるかの保証など、何処にもありません。

そんなありもしない保証を信じて、人は生きているのです。

命とは、かくもはかないものなのです。

だからこそ、人と人との出会いの有り難さに感謝するべきです。

今のこの一瞬一瞬が、永久の別れになるかもしれません。

後悔のないように、いつも人に感謝し、やさしくありたいものです。

2008年03月09日 19:45 | コメント (0)

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コラム:今週の言葉

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古人刻苦(こじんこっく)
    光明必ず盛大なり

昔、中国に石霜楚圓(せきそうそえん)という方がいました。
石霜は懸命に坐禅修行に励みましたが、どうしても眠気には勝てない。
そんな時、石霜は「古人刻苦、光明必ず盛大なり。我また何人ぞ。生きて世に益なく死して人に知られずんば、理において何の益かあらん(昔の人は皆な刻苦して修行に励んだものだ。しかし刻苦したが故にその成果もまた素晴らしいものであった。自分などどれ程の者であろう。生きて世の中の人の為になることを残すことが出来ず、死んで人に知られることが無ければ、一体何の価値があろうか)」と言いながら、睡魔が襲えば自分の股に錐を突き刺して眠気を払ったそうです。

偉人と呼ばれる人は、みな刻苦勉励したものです。だからこそ、素晴らしい成果を世に残すことができたのです。

どんな人でも自分に厳しく、懸命に努力すれば、必ずや素晴らしい結果を残すことができるに違いありません。

苦労は買ってでもするものです。

たゆまず努力しなければなりません。

2008年03月02日 19:47 | コメント (0)

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コラム:今週のことば

今週のことば

和顔愛語(わげんあいご)

この言葉は、『華厳経』や『無量寿経』(ただし『大正新修大蔵経』では「軟語」と作る)など、諸経典の中に見える有名な言葉です。

「和願」とは、穏やかな顔、笑顔のこと、「愛語」とは、優しい言葉、慈しみに満ちた言葉のことです。

他人に対して、いつもこのようであれれば、他人も自分も幸せな気分になるに違いありません。

しかし、現実にはなかなかこうはいきません。

辛いことや嫌なことがあった時、人は自然と暗い表情になります。疲れている時に笑顔でいるのも大変なことです。また物事がうまくいかなかった時、イライラして周囲の人に辛く当たったりもするでしょう。これが人情というものです。いつも笑顔をふりまき、優しい言葉を口にし続けることはしんどいことです。

しかし、それでも笑顔でいれば、きっと事態は好転するに違いありません。優しい言葉を口にしていれば、人からも優しい言葉が返ってくることでしょう。笑顔と優しい言葉は、自他を幸福にするのです。

「和顔愛語」は、仏教でいう「布施」のひとつと言えましょう。つまり、それ自体が修行でもあるのです。

そのように心掛けて生きていれば、いつかは自然と「和顔愛語」で生きることができるようになるはずです。

われわれは、そのように生きていきたいものです。

2008年02月24日 19:07 | コメント (0)

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コラム:今週の「こころの言葉」

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坐禅は乃(すなわ)ち安楽の法門なり

これは、『坐禅儀』という坐禅の要旨を説いた本の中に見える言葉です。

坐禅の効果について語られた本は枚挙に暇がない程です。「おすすめ書籍」にあげた本の中にも坐禅の効能を述べたものがいくつか含まれています。

さて、今回引用した『坐禅儀』では、「安楽の法門」ということについてどのように述べているのでしょうか?

『坐禅儀』では、坐禅の仕方から始まって、その効能についても以下のように説いています。

・静かな場所で厚い座布団を敷いて、衣服はゆったりとしたものを選び、姿勢を整えてから坐禅に入る。
・坐禅の形には結跏趺坐と半跏趺坐の二種類あるが、習熟の具合によってどちらを選んでもよい。
・脚を組んだ後、背筋をスッと伸ばす。息はゆったりと、舌は上あごを支えるようにし、口を閉じ、目は開いて居眠りを避ける。
・坐禅の形が安定し、呼吸が落ち着いたら、下腹をゆったりさせてアレコレと考えをめぐらさない。雑念が起こったら、すぐに意識を集中してこれに対処せよ。こうして意識を集中していくと、身体が一つの塊のような感覚になる。
・すると、自然に身体は軽やかに、心は爽やかに、意識は集中して益々はっきりしてくる。すると、心がどこまでも落ち着いて、安らかで楽しいことになるのだ。
・さらに「本当の自分」に目覚めることができたら、どんな場面に遭遇したとしても自在そのものだ。
・坐禅を終える時は、ゆるやかに身体を動かし、注意深く立ち上がることだ。決して軽率粗暴であってはならない。坐禅をしていない時も、一日中いつも坐禅で鍛えた心持ちで過ごすことだ。
・そもそも坐禅を組むことがなければ、臨終を迎える時になってあわてて意識を失うことになろう。いざ自らの死に直面した時、あわてることが無いように、普段から心を鍛えておく必要があるのだ。
・そのように出来てこそ、初めて他人を救うことも出来るというものだ。どうか正しく坐禅を習しなさい。

概ね以上の通りです。

古来、武士が坐禅に懸命に励んだのも、常に死を意識していたからでしょう。

正しく死ぬためには正しく生きねばなりません。まさに「生死一如」です。

まあ、それ程大袈裟に考えなくとも、まずは心の安らぎを得るだけでも十分でしょう。

ダラダラ過ごさず、一度は勇気を出して坐禅に挑戦してみましょう。きっと何かが変わるはずです。

2008年02月17日 19:14 | コメント (0)

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コラム:今週の「こころの言葉」

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無功徳(むくどく)!

これは禅宗の開祖、菩提達磨(ぼだいだるま)の言葉とされています。

昔の中国に、武帝(ぶてい)という信仰心の篤い皇帝がいました。武帝は、インドからやって来た達磨を宮殿に招いて、これまで自分がしてきたあらゆる善行について話し、そして達磨に問いました。

「私は即位して以来、お寺を造り、お経を写し、お坊さんに供養をしてきました。これらの行為によって、一体、私にはどれ程の功徳があるであろうか」と。

それに対して達磨は、ただ「無功徳(功徳などは無い)」と答えました。

さて、武帝の行為は、どれもたいへんに素晴らしいもののように思えます。それなのに、達磨の答えは何と冷徹なことでしょう。

では達磨の真意はどこにあるのでしょうか?

実はこの話には続きがあります。

武帝は達磨の回答に納得できるはずはありません。問いを重ねます。
「(私はこれまでこれだけのことをしてきたのだ。なのに)どうして功徳が無いのだ」と。

達磨は再び答えます。
「あなたがなさったことは、まぼろしのようなもので実体はありません」と。

武帝は再び問います。
「では本当の功徳とは何だ」と。

達磨は言います。
「何も得られないところが功徳なのです。世俗的な価値観で考えてはなりません」と。(以上『景徳伝燈録』巻3より)

一体、人が神仏にお祈りする時には、何かの目的をもってするのが普通です。例えば、受験に合格したい、幸せになりたい、恋人が欲しい、お金持ちになりたい…。まさに「苦しい時の神頼み」です。

しかし、これらはあくまで世俗的な価値観にすぎません。大体、神仏を、お金を入れたら自動的に商品が出て来る自動販売機のように考えること自体、おかしいのではないでしょうか?

仏教の徳目の一つに「布施」があります。「布施」とは、「見返りを期待しない施し」のことです。神仏にお布施をするのに、見返りを期待することが、そもそも間違っているのです。

そもそも「布施」は、神仏やお坊さんに与えるものだけに限りません。見返りを期待しない施しであれば、どんな行為も布施と言えます。そして、見返りを期待しない行為ほど美しいものはありません。

こんな話があります。

私の友人が大学受験の時のことです。自分の息子が懸命に努力している姿を見て、居ても立ってもいられなかったのでしょう。彼のお母さんは、彼に黙って神社に行ってお百度参りをしたそうです。冷たい冬の朝、裸足で石畳の上を何度も何度も往復する、きっと辛かったに違いありません。しかし、その時のお母さんは辛いと思ってお百度を踏んでいたでしょうか?いえ、私にはそうは思えません。

辛いと思うどころか、きっとお母さんの心の中には、息子の合格への祈りしか無かったはずです。ましてや、自分がそれによって何かを得ようなどとはこれっぽっちも思ってはいなかったことでしょう。これが「無功徳」ということです。

結果的に、友人はめでたく大学に合格しました。「功徳」はありました。しかし、それは神仏の力ではなく、友人の努力の結果なのです。その努力を後押ししたのがお母さんの見返りを期待しない心だったのです。

またこんな逸話もあります。

生涯、懸命に念仏ばかり唱えていたお婆さんがいました。そのお婆さんが亡くなって閻魔大王の前に連れて来られました。お婆さんは自信満々です。「これだけ念仏をお唱えしたのだから、きっとお浄土に行けるに違いない」と。しかし、お婆さんの意に反して、閻魔様はこう言いました。

「お前の念仏をすべて確認したが、お前の念仏はすべて欲得ばかりの念仏だった。これではすぐに地獄行きだ」と。

お婆さんは恐れおののきました。しかし、閻魔様は、お婆さんの最後のひとつの念仏を見落としていました。それは、雷が鳴った時、お婆さんが無心で唱えた念仏でした。

閻魔様はこのたった一つの無心の念仏を評価し、お婆さんをお浄土に送りました。

無功徳とは、こういった功徳があるとか無いとかを離れた心のことを言うのです。

2008年02月10日 19:39 | コメント (0)

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コラム:「今週のこころの言葉」

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財、多ければ還(かえ)って己を害(そこ)なう
  之(これ)を散(さん)ずれば即ち福生じ
    之(これ)を聚(あつ)むれば即ち禍(わざわ)い起こる


これは唐代の寒山(8~9世紀頃)の言葉です。

寒山は、中国の天台山国清寺に隠栖した豊干(ぶかん)門下の風狂の僧とされますが、実在したどうかは不明です。

今週の言葉は、この寒山の詩を集めたものとされる『寒山詩』からです。

お金は言うまでもなく大切なものです。しかし、財産があまりに多すぎると、却ってその所有者を破綻に導きかねないものでもあります。つまり、お金は諸刃の剣のごときものなのです。

ここに「之を散ずれば」とあるのは、「散財」の意味ではなく、「正しく使う」という程の意味でしょう。

正しい方法でお金を使うことのできる人の元には、福がやって来るに違いありません。

しかし反対に、守銭奴のような人の元には、きっと禍しかやって来ないでしょう。

お金には人格はありません。その所有者に人格があるのです。

そして、その所有者を狂わせるものもまたお金なのです。

お金は必要以上に持たない方が賢明と言えましょう。


ちなみに、『寒山詩』に見える詩の全体は以下の通りです。

貪人(とんじん)の財を聚(あつ)むるを好むこと [欲張り野郎が財産をかき集めるのを好むのは]
恰(あたか)も梟(ふくろう)の子を愛するが如し [まるでフクロウが子供を可愛がるようなものだ]
子は大なれば母を食らう [その子供は大きくなれば母親を食ってしまう]
財は多ければ還って己を害なう [財産が増えていくとかえって自分をそこなう]
之を散ずれば即ち福生じ [使ってしまえば福が生じ]
之を聚むれば即ち禍起こる [集めたら災難が起こる]
財無く亦(ま)た福無くば [財産もなく災難もなければ]
翼を鼓(こ)す 青雲の裏(うち) [青空の雲の中に羽ばたいて自由自在だ]
(以上、入矢仙介・松村昂訳注『寒山詩』筑摩書房・禅の語録、より引用)。

2008年02月03日 14:34 | コメント (0)

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コラム:今週の「こころの言葉」

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七歳の童児も我に勝(すぐ)るる者は、我は即ち伊(かれ)に問わん。

百歳の老翁も我に及ばざる者は、我は即ち他(かれ)に教えん。

これは、中国の唐代の禅者、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)の言葉です。

趙州は、長年にわたる修行の後、60歳になって改めて行脚の旅に出、80歳になって一ヶ寺の住職となり、120歳の長寿で逝去したとされる禅者です。

この言葉は、趙州が60歳の時に再行脚に出た時の誓いの言葉であったとされています。


人は往々にして、相手が自分よりも年少者だと思うと相手を見下し、たとえ自分よりも優れていたとしても、なかなか真剣に耳を貸そうとはしません。それどころか、「生意気だ!」とか、「近頃の若い奴は…」などと言って、怒りや不満を爆発させるのがおちです。

一方で、相手が自分よりも年長者だと思うと、たとえ自分よりも劣っていたとしても、その間違いを指摘することができません。

しかし自らに私欲が無く、誠実に生きていれば、たとえ相手が年少者であったとしても、その優れた所を真摯に認めることができるはずですし、たとえ相手が年長者であったとしても、その欠点を教えてあげることができるはずです。

問題は、自分が無心・無我でいることができるかどうかです。

先入観だけで物事を判断することほど、愚かなことはありません。

2008年01月27日 18:58 | コメント (0)

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コラム:「機心」(きしん)

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中国の古典『荘子』「外篇・天地大十二」の中に次のような話があります。

子貢という人物が旅の途中、一人の老人の畑を作っている所に出くわしました。老人は地下道を掘って井戸に入り、壅を抱え上げては井戸水を汲み出して畑に注いでいました。(そのような具合では当然)手間がかかるだけです。非常に効率の悪い仕事だと言えましょう。

それを見た子貢は言ました、「ご老人、機械を使えばもっと簡単に、そして効果的に水をかけることができますよ。やってみませんか」と。

老人は子貢を見て言いました、「どうするのかね」と。

子貢は言ました、「木に穴を開けて機械を作り、後部は重く前部は軽くする。そうするとものを引くように水が汲めますし、湯があふれるように早くできます。その機械を《はねつるべ》と言うのです」と。

老人は一旦は顔色を変えたものの、すぐに笑って言ました。

「私は(かつて)師からこのように聞いた。〈機械を持てば機械を用いて行う仕事(=機事)が出て来るし、機械を用いる仕事が出て来ると、機械にとらわれる心(=機心)が必ず起きる。機械にとらわれる心が胸中にわだかまると、(心の)純白の度合いが薄くなり、(心の)純白の度合いが薄くなると、精神が定まらない。精神の定まらないところには《道》が宿らない〉と。わしは(機械というものを)知らない訳ではなく、ただ恥ずかしくて使えないだけなのだ」と。(市川安司・遠藤哲夫共著『新釈漢文体系』8参考)

「はねつるべ」というのは、「柱で支えた横木の一端に石を付け、他端に取り付けた釣瓶を石の重みではね上げ、井戸水を汲み上げるもの」(@NIFTY辞書より引用)です。

「はねつるべ」など、現代人から見ればひどく原始的な機械と言えましょう。しかしこの老人は、このような原始的な機械を使うことさえ「機械にとらわれる心」、つまり「機心」というものが起こるからと言って拒否したのです。

一体、私たち人間は、道具を使用することで他の動物との差別化を図ってきました。そうでなければ、力も無く、足も遅い人間など、あっと言う間に他の動物の餌食にされて絶滅してしまったことでしょう。いえ、他の動物の餌食にならないまでも、食べものを手に入れることさえ困難であったことでしょう。つまり、人間にとって道具を使うということは、ある程度、本質的なものことと言えます。

しかし、道具や機械を使うことによって何か大事なことを失ってはいないでしょうか?

確かに機械を使えば、何事も効率よく行うことができます。そしてより多くの仕事をこなすことができるようになります。しかし、人間の欲望は果てがありません。次にはもっと楽に、もっと早く、もっと効率よく仕事をこなすことを求めるようになっていくことでしょう。では、そのような生活は本当に楽で快適なものなのでしょうか?

現代社会は荘子の時代に比べれば、考えられない程に進歩しています。その結果、現代社会は大変に複雑なものになってしまいました。

私たちは便利な機械をボタン一つで使うことができます。しかし、そんなに便利な機械でも一旦、故障してしまえば手も足もでません。先日も東京で電車の改札の機械が故障して大変な騒ぎになったところです。そう考えれば、現代社会は不便さと便利さが表裏一体の中で生きていると言えるでしょう。

また機械が複雑になれば、それを作る作業も複雑になっていきます。それどころか現代では、機械を作るのも機械になっています。そのような場では、人間もまた「機械の一部」なのだと言えるでしょう。

また複雑な社会は、社会構造までも複雑にしていきます。地中には多くの管が、頭上には多くの電線が張り巡らされています。携帯電話が普及した現在では、眼に見えない電波もまた私たちを取り囲んでいます。

それらの複雑な社会構造の全てを理解している人が、一体、どれほどいるのでしょうか?私たちは、まるで迷子になった子供のようです。荘子の中の老人が指摘しているように、現代人のストレスの多くは、「機心」によって起こっていると言えましょう。

確かに今から原始時代のような生活にもどることはできません。しかし、私たちは、「機事」に囲まれ、「機心」にとらわれて心が純白でなくなっていることを自覚するべきでしょう。

道元禅師は、長い修行の後に「眼が横に、鼻が縦についていることがわかった」と言いました。

人間は、もっと単純なものなのではないでしょうか?

2007年10月22日 18:31

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コラム:「この月の月」

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夕べは今年の中秋の名月。秋の到来を告げるように、夕べから気温も下がり、今朝などは肌寒いほどでした。

道元は四季を「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」と詠いました。空気の澄み始めたこの時期の月は、まさに格別だと言えるでしょう。

さて、禅では非常にたくさんの月を題材にした風流な言葉が残されています。

例えば「千江水有り千江の月、万里雲無し万里の天」

天空に浮かぶ月が地上を照らし出す。そして月の光に呼応して、月影が千本の川の水面に浮かんでいる。天を見上げると万里の雲一つ無い空。とても雄大な景色を詠い上げたものですね。その夜の月はさぞや美しい月であったことでしょう。

例えば「吾が心は秋月に似たり、碧潭清くして皎潔」

私の心はまるで碧潭に皎々と冴えている秋の月のようだ、という意味です(入矢義高『禅語辞典』参照)。澄み切った碧色の池に秋の月が浮かんでいる様を詠ったものです。この句の後に「物の比倫するに堪えること無し、我をして如何に説かしめん」と続きます。この月の美しさは他に比べようもない、という感慨です。中秋の名月にピッタリのうたです。

一般に禅では、「月」は「仏性」(ぶっしょう)の譬喩とされます。「仏性」とは、「仏の本質」(中村元『仏教語辞典』)と解されますが、平たく言えば、「心の本質」ということでしょう。

仏教では、我々の心にはみな「仏性」が有って、普段は煩悩によって隠されている。その煩悩を取り払えば、「仏性」が現れ出て、みな仏になることが出来るのだとされます。

雲一つない空に浮かぶ一輪の月がわれわれの心の本質。そう考えると、我々日本人が、ことさらに月を愛する理由が理解できるような気がします。

さて、禅の言葉ではありませんが、「月月に 月見る月は多けれど 月見る月は この月の月」(詠み人知らず)という「月」という文字を八つ詠み込んだ有名な句もあります。

中秋は旧暦の8月15日のこと。「月」を8回詠み込んだのは、「8月」にかけているのだとも言われています。「この月の月」とは、「今月(旧暦8月)の月」ということ、つまり中秋の名月を指します。

しかし私は「この月の月」という言葉を、端的に「目前に浮かんでいるこの月」と取りたい。事実、即今見ている月以外、月はそこには存在しません。まさしく眼の前に浮かんでいる「この月」こそが、私をこのような澄んだ心持ちにさせるのだ、と取りたいのです。

言うまでも無く、「この月の月」は、あなたの本当の心の投影です。

「憎い」「辛い」「悲しい」…、そんな雑多な思いを振り捨てて、一心に「この月」を見ている時、「月」に喩えられるあなたの「本当の素直な心」が現れ出ているのです。そんな時、あなたは紛れもなく仏様なのです。

そんなことを思いながら、「この月の月」を堪能してみてはいかがですか?

2007年09月26日 17:27

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コラム:火防達磨(ひぶせだるま) ―非戦への祈り―

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禅宗の開祖は菩提達磨(ぼだいだるま)大師です。「菩提達磨」というと何だか難しい感じがしますが、要するに皆様に親しまれている「達磨さん」のことです。

達磨大師は禅宗の開祖ですから、禅宗寺院の本堂には、達磨大師の木像をお祀りするのがならわしになっています。

当山にも戦前、立派な達磨大師の木像がありました。しかし戦後、当山の先々代住職・宗寛和尚によって、当山の達磨大師はまずは神戸の寺院に移され、やがて京都の寺院へ移されました。

では、どうして長きにわたって当山をお守り下さった達磨大師様が、他所の寺院に移されることになったのでしょうか?それにはこんな経緯があります。

太平洋戦争も末期の昭和20年3月17日と6月5日、神戸にもアメリカ軍による大空襲がありました。神戸大空襲です。

空襲は、神戸だけではなく、周辺の地区にも広がりました。

『西宮の歴史』(西宮市教育委員会)所収、宮本範子「空襲体験記―火の雨」によると、西宮への最初の空襲は、5月11日が最初、その後、6月に3回、7月に3回、焼夷弾が西宮の街に落とされたようです。

特に西宮に甚大な被害を与えたのは、8月6日の未明の空襲でした。この空襲による被害者は56,000人にものぼったようです。

当時の空襲の凄まじさを、宮本氏は次のように述懐しています。

「夜中の警報サイレンにまたかと思いつ防空服に身を固め家の外に出ると、西の方はもう炎上しているのか空全体が強い夕焼けのように明るく、昼のようであった。いつもとようすがちがうなと思っていた途端、ザザー、シュルシュルと焼夷弾がおちる音、大きな打ち上げ花火のような火の雨が頭上にふりそそいだ。と思うと爆弾の炸裂するはげしい音、そして急に誰かが私に強くぶつかると思ったら、私の左上腕は爆弾の破片がぬけ通って、腕はうちひしがれ皮一枚という感じでぶら下がっていた。…空襲は連日でその危険からのがれるため病院を追われて旧武徳殿(六湛寺町)へ運ばれた。百畳敷きもあるような広い所にぎっしり負傷者が詰まっていて、たまに巡回される軍医や看護婦さんが患者を踏まないように苦労しておられたのを覚えている。傷の痛さか家を焼かれたせいか、発狂者が多く、重傷者の顔や身体を所かまわず踏んで廻る者があり、痛んで泣き叫ぶ者、狂おしくわめく者などさながら生き地獄であった。」(前掲書p.214~216)

戦争を知らない私にも、凄惨さが目に浮かびます。同書には当時の焼け落ちて石の鳥居だけを残した西宮神社周辺の写真も添付されていますが、まさしく焼け野原です。

そして、当山もまた、諸堂の一切がこの空襲によって灰燼に帰しました。

当時の住職であった宗寛和尚は、この空襲の最中、壇信徒の位牌と諸仏像、そして達磨大師木像を防空壕の中に隠し、その上にありったけの畳を重ねて水をかけて、これらを保護しました。こうしてお位牌と仏像は、宗寛和尚の努力により類焼を免れました。

しかし仏像が残っても、お祀りする場所がありません。またお経をあげるにも、衣も袈裟も、仏具も何もかも燃え尽きてしまっています。全く八方ふさがりの状態です。

そんな中、焼失を免れた神戸のある寺院から、袈裟や仏具の提供を受けました。宗寛和尚は暖かな人情に触れてさぞや感激したことでしょう。しかし、当山にはそんな気持ちにお返しするものは何もありません。

こうして宗寛和尚は、そうした気持ちに応えるために、達磨大師像を神戸の寺院に「里子」に出すことを決めました。当山が復興を果たし、神戸の寺院へお返しが出来るような状態になれば、達磨様にはお帰り頂くつもりだったのでしょう。空洞の達磨像の内側に宗寛和尚自ら「順心寺」と記し、神戸の寺院まで持参しました。

しかし宗寛和尚は間もなく帰らぬ人となりました。そして達磨像は、やがて京都の寺院へ移されることとなりました。

当時の京都の寺院のご住職様は、あの大空襲から燃え残った逸話に感激し、この達磨を「火防達磨」と命名し、「防火の仏様」としてお祀りすることにしました。京都では当山の達磨様は、たいへんな信仰を集めたようです。

しかし、一昨年、京都の寺院のご住職様のご好意により、その達磨大師の木像は60年ぶりに当山へ戻されました。

こうして「火防達磨」と命名された達磨様は、今は当山の本堂で、静かに坐禅を組んでいます。

達磨様は何も言いません。ただ黙って鋭い目線をこちらに向けて坐禅を組んでいるだけです。しかし、その目には、きっとあの空襲の猛火が焼き付いていることでしょう。

当山の達磨様には、そんな因縁があったのです。

戦争の悲惨さ、愚かさについて改めて言葉にする必要はないでしょうし、また「戦争を知らない」世代の私に戦争を語る資格もありません。先にあげた宮本氏の証言だけで十分だと思います。

64年前の西宮でも、戦争によって大変な数の人々が戦死し、何もかもを失ったのです。そのことを決して忘れてはいけません。

当山の達磨様はその「生き証人」なのです。非戦を祈ることも当山の役目であると、私は達磨様とお会いする度に、達磨様に戒められているのです。

2007年08月10日 16:49

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コラム:恩愛(おんあい)、甚だ絶ち難し

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この言葉は、浄土真宗の開祖である親鸞聖人のお言葉です。

「恩愛」とは、夫婦や親子間での愛情のことを言います。「恩愛、甚だ絶ち難し」とは、深い愛情で結ばれている夫婦や肉親への愛情を断ちきることは困難なことだと言う意味です。妻子を持っていた親鸞聖人らしい人間的な言葉です。

仏教には「恩愛別離」という言葉があります。これは「愛別離苦」(愛する人との別れ)とも言われ、仏教の八苦(人間の根源的な苦しみ)の一つに挙げられます。

愛する人を亡くした苦しみは、体験した人にしかわからない非常な苦しみです。

われわれ僧侶の仕事は、こうした愛する人を亡くしたご遺族とのお付き合いが中心です。ご遺族はみな、大なり小なりその苦しみに直面しています。

そして遺族の多くは、あるいは時間の経過によって、あるいは現実を受けとめることによって、そのような苦しみを克服していかれます。

しかし、皆が簡単にそのような苦しみを克服できる訳では無く、いつまでもそのような苦しみに苛まれ続ける方もいらっしゃいます。

そのような方を前にして、我々が出来ることは何か、どんな言葉をかければよいのか、我々もまた迷い、苦しみます。

そもそも「諸行無常、諸法無我」(あらゆる現象は変化しつづけ、あらゆる存在には永遠なものなどない)は仏教の根本的な教えです。世間は無常なものであり、身も心も幻のごときものなのです。

しかしそれがいくら普遍の真理であったとしても、いざ現実の場で「愛別離苦」に遭遇した時、その真理を簡単に受けとめることなどできないのが人情というものです。

当HPでも紹介いたしました『文藝春秋SPECIAL』2007年夏号の中の、保坂正康氏というノンフィクション作家が著した「二十二歳で逝った息子へ ―愛する家族の喪失と再生―」という一篇のエッセイを読み、大変に啓発されました。

その中に、英国の王立精神医学大学発行の「悲しみに関するリーフレット」の、次のような「愛する人を喪った悲しみ」のプロセスが紹介されています。

①最初の悲しみ
(愛する人を喪ったあと数時間は現実が信じられず、呆然としてしまう。いわば感情の麻痺状態)
②不安感と故人への恋しさ
(どうにもならない不安感、そして故人が存在していないのにその姿を求めたりする。現実が受けいれられず不眠症になることもある)
③怒りの感情
(死を防ぐことができなかった医師や、故人を愛していないと思われる友人や親戚、そして自分を置いていった故人への怒りなど)
④深い罪悪感
(故人にもっと優しく接すればよかったとか、ああいう病院に入れなければ助かったのにという自分を責める気持ちが強まる)
⑤静かな悲しみ、引きこもり、沈黙といった状態
(他者と接しない、あるいは口数も少なくなる)
⑥突発的な悲しみ
(故人を偲ばせる人、故人のいた場所や遺品を見ると急に泣き出したり、深い沈黙を続けたりする)
⑦悲しみの薄れ
(最初に感じた痛烈な死別の悲しみは薄れ、しだいに他のことにも関心が向くようになる)
⑧故人を解放し、自らも新しい人生を始める
(抑鬱状態は薄れていく。睡眠も十分に取れるようになり、活力も戻ってくる)

一般的に、第1段階から第8段階に至るまでに1,2年程かかるとされています。しかし、それも個人によって差があります。

保坂氏自身、最愛の息子の死を克服できず、第8段階に至るまでに5年程かかったことを告白しておられます。そして、その苦しみをようやく克服した保坂氏は、これらの8段階にさらに2段階を追加されています。

⑨故人を自らのなかに抱え込む
(故人のなかに存在したであろう自らのイメージを守ることが故人を抱え込むということである)
⑩自らの死によって「愛する人」もまた再度死ぬ。それまでは「愛する人」と共に生き抜く。
(悲しみを乗り越えるのは本人が自立することである)

保坂氏は最終的に第10段階のような結論に到りました。そしてこのように仰っておられます。

「私は息子の死を通じて悲しみから逃げてはいけないとの思いをもつ。速効的な宗教上の考えや酒などに逃避してもそこには解決はない。自分が自立した姿勢で悲しみと向き合っていく。その強さをもつことで死者とともに生きているとの実感をもつ。それが人間的な成長ということでないかとも思うのだ。」

ここで保坂氏が、「宗教上の考えや酒などに逃避してもそこには解決はない」と述べておられることは注意が必要です。これは、自分の力で乗り越えることから目を背けるべきではない、という意味でしょう。

ともあれ保坂氏は、息子さんの死を受けいれるまでの長い苦しみを経た後、今は亡き息子さんが、保坂氏の中で依然として生きているのだとの自覚を得るに至ったのです。そして保坂氏は、そのことに気付いた時、自らの生もまた充実したものとなったのだと述べているのです。

中国の大慧宗杲(だいえそうこう)という禅の僧侶もまた、家族を亡くした遺族に対して次のように述べています。

「父母と子供との恩愛の情は、限りない時間をかけ、限りない生死をくり返す間に染みついたものだからこそ親子となったのです。自分が日頃愛しているものを天が奪ってしまったのです。どうでしょう、忘れられますか?忘れられませんか?…悲しみを克服したいのなら、今悲しみなさい。亡くなった方のことで思い悩まないようになりたいのならば、今思い悩みなさい。思いに思いを重ねて、恩愛の情ををきれいさっぱり払い捨てるのです。そうすれば、自然に悲しみのない境地にいたるでしょう。今、思い悩まないように、悲しまないようにしなさいと勧めることは、まるで火に油を注ぐようなものです。」

ここで大慧は、愛する人を亡くした悲しみを堪えるのではなく、反対に思い悩み、悲しみ尽くしなさいと言うのです。そして、その悲しみの果てに、きっと真の安心が有るのだと教え諭すのです。大慧の主張は、保坂氏の経験に重なります。

死は誰にでもいつかは訪れます。しかし遺族はその衝撃を簡単には受けいれることはできないでしょう。しかし、保坂氏が最終的に得た境地のように、死者は遺族の中で遺族と共に生き続けるのです。だからこそ、遺族は自らの生をより充実したものに変えていくべきなのです。遺族が悲しめば、遺族の中にいる死者もまた悲しむことでしょう。反対に、遺族が笑えば、死者もまた遺族の中で笑っているに違いありません。

しかし、そのような境地に至ることは決して容易ではありません。そして、それが出来るのも、悲しんでいる当の本人だけなのです。我々は死者の供養を通して、その手助けをすることしかできません。

決して現実から目を背けてはいけません。死を受けいれることから新しい生が始まるのです。時間はかかるかもしれませんが、決してその過程を投げ出してはいけません。

一方でわれわれ僧侶自身も、「愛別離苦」に苦しむ遺族に対して、体のいいうわべを取り繕った「宗教の言葉や考え」に逃避することは避けねばなりません。遺族の悲しみを我が身に引き寄せ、遺族の苦しみを分かち合った上で、自らの言葉や考えによって遺族に対さねばならないでしょう。それが「生きた」宗教のあり方と言えるでしょう。とても困難なことですが、それがわれわれ僧侶に課せられた課題なのです。

最後に、幼い子供を亡くした母親が、長い苦しみを経た後につくった詩を紹介して筆を置きたいと思います。

パニックはゆっくりとしか去らない
この悲しみに備えるのにすでにわたしには長い長い時間がかかった
なぜこの子は逝こうとするのか、なぜなにもかも長くは続かないのか
未来が過去の事であってはならないのに

だがしかし、ある歌は短い、ある歌は長い
完璧な4年間、でも短い歌だった
だけどああ今日この子は歌っている、活き活きと、大きな声で
そして未来はようやく現在に ―今に、なった (『死ぬ瞬間と子供たち』)

2007年07月01日 18:04

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コラム:以心伝心

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先日、今話題の映画『バベル』を観に行って参りました。『バベル』は、メキシコ出身のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督(『アモーレス・ペロス』、『21グラム』)の作品で、菊池凛子さんや役所広司さんが出演していることでも話題になっています。

「バベル」というタイトルは、「バベルの塔」からきています。

「バベルの塔」は、『旧約聖書』の『創世記』11章に見える伝説上の巨大な塔のことです。

元来人々は同じ一つの言葉を話していました。ある時、人々はレンガとアスファルトを手に入れ、天まで届く塔のある「バベル」という町を作ろうと考えました。

神はこのような人間の高慢な企てを知ります。そして神は、これは人間が同じ言語を持っているが故の所業であると考えます。

こうして神はバベルの塔を崩壊させ、言語をバラバラにしました。そして人々は混乱(=「バラル」)し、世界各地へ散って行ったのです。「バベル」は、混乱を意味する「バラル」からきたものとされています。

この『旧約聖書』に見える伝説は、世界に様々な言語が存在する理由を説明するための物語であると考えられています。そして、また一方で、技術を手にした人間の傲慢さを戒めたものと考えられています。

さて、映画の『バベル』ですが、日本、アメリカ、メキシコ、モロッコの四都市を舞台に物語は進行していきます。登場人物は、みな何かしらの理由で言葉によるコミュニケーションの限界に突き当たります。

「言葉が通じないこと」と「心が通じないこと」…、この映画の底流に流れるのは「コミュニケーション」ということです。

禅は「不立文字、教外別伝」(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん)を標榜します。この言葉は、『無門関』第六則「世尊拈花」(せそんねんげ)に見えます。

世尊(=仏陀)が昔、説法した時、目前にいる僧達の前で一本の花を手にとって人々に示しました。その時、みな世尊の真意がわからずに黙ってしまいましたが、ただ迦葉(かしょう)という弟子だけはそれを見てニッコリと微笑みました。すると世尊は、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」(私には真実の教えにして、妙なる悟りの心、形を持たない真実の姿、不可思議なる仏法がある。いま、それを言葉を使わず、〔文字に記された〕経典の教え以外の方法で、迦葉に委ねたのだ)と言いました。

この話は、禅の性質をよく表しています。要は「各自で自覚せよ」ということです。

言葉というものは不安定なものです。同じ言葉であっても受け取り方によっては全く正反対の意味にもなります。言葉だけで真実を伝達することは不可能なのです。それが「以心伝心」という言葉の由来でもあります。

では本当に言葉は不要でしょうか?「不立文字、教外別伝」と言いながら、禅には大量の言葉が残されています。「言葉」を重視する他の宗派よりも多い程です。何故でしょうか?

禅者は「言葉」を信用しませんが、かといってコミュニケーションの重要な手段である「言葉」を放棄はしません。むしろ、その可能性を極限まで突き詰めます。

ある禅者は、「仏とな何か?」と問い、「乾いた糞」と答えました。また別の時には、「芍薬(しゃくやく)の花壇」と答えました。

一見、問いと答えとの間に何の脈絡も無さそうです。ではこのような問答によって、一体、何を伝えようとしているのでしょうか?それは、「以心伝心」と言われるように、「心」を伝えようとしているのです。

心には形はありません。だから心を言葉で伝えることなど本来不可能なのです。だからこそ、人はたびたび言葉によるコミュニケーションに躓き、絶望するのです。異文化間でのコミュニケーションなら尚更です。

言葉をはぎ取った時、そこに残るのは、相手の心を知ろうとする思い、伝えようとする思いだけでしょう。そして、これが本来のコミュニケーションのあり方だと言えるでしょう。

禅に「頻りに小玉と呼ぶも元より事無し、只だ壇郎の声を認得せんと要す。(しきりに侍女を呼ぶのは何も用事があるからではない、忍んできた愛しい人に私の声を聞いて欲しいから)という艶っぽい言葉があります。

この言葉をそのまま受け取れば、相手に自分の気持ちを伝えたいがために何度も何度も侍女を呼んでいるのだといえます。「小玉」という呼びかけは、愛しい壇郎への「思い」に他ならず、「小玉」という言葉には意味はないのです。

しかし、それも壇郎がそのような思いに気付いてはじめて成立すること。コミュニケーションとはそんなものなのです。

あなたが誰かに発した言葉にそんな「思い」は詰まっていますか?また誰かの言葉から「思い」を汲み取ろうと努力をしていますか?もしそうでなければ、そこにコミュニケーションは成立していません。

また反対に言葉が通じなくとも、そこに「思い」があれば、きっとコミュニケーションは成立するはずです。

『バベル』が伝えようとしていたことは、そんな「以心伝心」の重要性ではないか、そう感じた2時間20分でした。


2007年05月03日 18:46

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コラム:百花春至為誰開(百花春至って誰が為にか開く)

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季節はもう4月。暖かい日が続き、花々は妍を競い爛漫に咲き乱れています。

日本人にとって春の花といえば、やはり桜が代表格でしょう。別格と言ってもよいかもしれません。桜もまた今や満開です。

しかし、禅の本場である中国では桜はあまりメジャーな存在ではありません。「桜」という文字は確かに中国から入って来たものではありますが、中国での「桜」は、「ユスラウメ」という花のことだったようです。

一方、日本人は殊の外、桜を愛します。それは四季がはっきりした日本では、長く厳しい冬を乗り越えた喜びが、あの華やかに咲き誇る桜の花に集約されていると人々が感じるからかもしれません。季節感が無くなってきた現在でも、桜の花に特別な意味を見出すのは、ある意味、DNAの中に組み込まれた日本人の特質の一つなのでしょう。

さて標題の「百花春至って誰が為にか開く」という言葉は、『碧巌録』という禅の書の中に見えるものです。ではどんな問答でしょうか。

雪峰(せっぽう)という一人の禅者が弟子たちに言った、「全大地をつまみあげれば、粟の粒ほどの大きさだ。その全大地をお前たちの目の前に放り投げたが、お前たちはとんと理解できない。仕方がないからすぐに仕事を始めなさい」と。

この問答を解釈して付けた詩の中に、「百花春至って誰が為にか開く」という言葉があります。

雪峰は弟子たちに正しく普遍の真理というものを理解して欲しいがために、このような難解な言葉を発したのです。ではその真理とはどこにあるものか?何てことはない、眼の前のあらゆる世界のそのままが真理そのものなのです。

百花は無心に開き、無心に散って行きます。そこに何のはからいもありません。誰かに見られようとも、誰かから褒められようとも思ってもいません。深い谷のせせらぎに包まれた人跡未踏の場所に、本当に美しい花が咲いていることもあるでしょう。その花は「誰かに見られなくて悲しい」などと言うでしょうか。

一方で道端でホコリまみれになって咲いている花もあります。その花は「ホコリっぽいから嫌だ」などと文句を言うでしょうか。言うはずありませんね。思いもしないでしょう。《ただ》咲いているだけです。

いやむしろ、その《ただ》という意識さえもないでしょう。花は、自然のままに生を受け、その授かった「いのち」を精一杯に発揮し、大地一杯に咲いているだけなのです。

雪峰の難解な言葉は、眼の前で無心に咲き誇る百花の如くにあるべきことを、弟子たちに求めたものなのでしょう。

一方、あれやこれやと文句や不満ばかりを心につのらせて生きるのが我々人間です。

我々は自らの愚かさを、百花の精一杯の生命の発露を見ることを通して反省する必要があるでしょう。そして、自らの、この授かった「いのち」に深い感謝をするべきでしょう。


2007年04月07日 17:42

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コラム:悪をなさず善をなせ(諸悪莫作、衆善奉行)

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先日、京都の田辺市にある「酬恩庵・一休寺」へ行って来ました。一休寺は、その名の通り、とんちで有名な一休さんが住んでいたお寺です。

一休は、一休宗純(1394-1481)といい、大徳寺の住職にも推挙された程の禅僧でした。

その一休が残した書の中で、最も有名なものが、「諸悪莫作、衆善奉行」という言葉を揮毫したものです。非常に激しい筆致で、日本の禅僧の書の中でも優れたものの一つとされています。

一休寺 023①.jpg 一休筆「諸悪莫作、衆善奉行」碑


「諸悪莫作、衆善奉行」とは、「七仏通戒偈」という仏教の初期の戒の言葉で、全体で、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(もろもろの悪をなさず、多くの善を行い、自らの心を浄めること、これが諸仏の教えである)となります。

では善と悪とは一体、何でしょうか?道徳的に正しければ善でしょうか?それとも法律的に正しければ善なのでしょうか?

例えば日本で美徳とされる事柄でも、海を隔てた隣の国に行けば悪徳とされることもあるでしょう。また、時代が変われば価値観が変化するのも当然のことです。

そのようなことばかりでは無く、状況によっても善悪の判断は変わります。

このように、善悪という概念は、実は非常に曖昧で相対的なものなのです。

ではどうやって生きれば良いのでしょうか?厄介な問題です。

禅は、善と悪という区別でさえも、分別だといって退けます。しかし、だからといって好きなように放埒に生きれば良いのだと主張する訳でもありません。

「七仏通戒偈」には、善と悪についての定義ののち、「自らの心を浄めよ」とあります。「心を浄める」とは、「無心」になることです。実はこれが重要なのです。

私心にもとづいた善行は偽善です。私心にもとづいた善行は、結局は自分の利益を優先することでしょうから。

また悪行は、自分で悪いと思っているのであれば、そもそも行なう必要はありませんし、あえて悪行と指摘することもないでしょう。

本当の善行とは、心を浄めた上での私心の無い行為なのです。そもそも善悪は相対的なものなのですから、私心があれば、いくら善いことを行なったとしてもきっと何処かでボロが出て来ることでしょう。

自らの心中の誤解に気付くこと、それが悪事をなさない第一歩なのです。そして、心を浄めること、これが善行の第一歩なのです。

その上で柔軟な心でもって複雑な現実社会の中で正しく行動すること、これが「諸悪莫作、衆善奉行」ということなのです。

さて、禅の逸話に次のようなものがあります。

白楽天が地方の長官だった頃、松の樹上で坐禅を組んで暮らす風変わりな禅僧がいるというので会いに行きました。白楽天はその禅僧に言います、「危ないですよ」と。しかしその禅僧は、白楽天に対して反対に、「あんたの方がずっと危険じゃないか」と言います。当然白楽天は反論します。その禅僧は再び白楽天に対して言います、「あんたは雑事に追われてばかりで煩悩まみれ、どこが安全だというんだ」と。白楽天は反省してその禅僧に教えを請います。するとその禅僧はこう言いました、「諸悪莫作、衆善奉行」と。
バカバカしく思った白楽天は「三歳の子供でもそんな当たり前のことはわかっておりますわい」と気色ばみます。すかさずその禅僧は言います、「三歳の子供でもわかっていても、八十歳の老人でも実行出来ないではないか」と。

悪いことをしない、善いことする、ということは当たり前の生き方です。しかし、理屈では当たり前のように思っていることでも、実は何一つできないことばかりだというのが、われわれ凡夫なのです。

そのような自らを反省し、私心の無い善行を積み重ねて生きること、それが肝要なのです。それが「諸悪莫作、衆善奉行」に生きるということなのです。

2007年02月05日 14:59 | コメント (0)

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コラム:福を求めて

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当寺に程近い西宮戎神社は、毎年1月9日~11日までは十日戎で大変な賑わいを見せます。

戦前までの当寺は、現在の場所よりも更に南、戎神社とまさに隣接していました。現在でも十日戎の期間中は、当寺の周囲もまた大変な人で埋め尽くされます。

西宮神社のHPでは、十日戎の起源について次のようにあります。

「年の始めに商売繁盛を祈願するお祭りとして知られている十日えびすの祭典は、古くは御狩神事(みかりしんじ)とか忌籠祭(いごもりさい)といわれていました。

かっては、狩猟をして神意を窺うために謹慎斎戒の忌籠(いごもり)が行われていたようです。市中の各戸も九日の夕刻に門を閉じ、静粛を守っていたことが室町時代の重篇応仁記(永正十七年/1520年)に記されています。

今では宵えびすの一月九日の深夜十二時に神社の全ての門を閉じて忌籠を行い、十日午前四時の十日えびす大祭を厳修した後、午前六時の大太鼓を合図に表大門が開かれると、待ち構えた参拝者が本殿への走り参りを行い、到着順に一番福から三番までが福男として認証されます」。

言うまでも無く、戎さんは福の神、「商売繁盛で笹持ってこい!」のかけ声で有名な通り、商売の神様でもあります。

例年行なわれる「福男」選びは近年マスコミに取り上げられて一種のレースと化し、参加者の熱の入りようは尋常ではありません。昔の素朴な福男選びを知っている者にとっては違和感を感じますが…。

さて、出家を旨とする仏教、特に禅では商売についてどのように捉えているのでしょうか?

「くらしの道を立てることが皆そのまま正しい道理に従うことであり、真実の姿と相違することはない」。(「大慧法語」)

これは『法華経』中の言葉を敷衍した言葉です。

出家を旨とする仏教でも、決して商売を否定することはありません。むしろ商売に生きる方にとっては、商売の道に邁進することこそが真理にかなった生き方なのです。商売に生きる方は商売三昧に徹して生きるだけ、人それぞれの本分を尽すことが大事なのです。

そのように生きることが出来れば、きっとあなたには福が訪れることでしょう。

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2007年01月10日 22:28 | コメント (0)

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謹賀新年

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謹んで新年のお慶びを申し上げます。 本年も宜しくお願い申し上げます。

昨年は当山にとって、開創750年目となる節目の年でした。そして今年は、751年目という、新たな一歩を踏み出す年となります。

本年も、皆様のために尽力して参る所存でございますので、ご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

皆様のご多幸を祈念致しております。

2007年01月01日 10:18 | コメント (0)

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コラム:あるお婆さんのはなし

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かれこれ10年程も前のはなしでしょうか。ある檀家さんのお婆さんの娘さんがお亡くなりになられました。

お婆さんは当時すでに80歳、娘さんも60歳ほどでした。お亡くなりになった娘さんは独身で、お婆さんと二人きり、お婆さんのお世話に生涯を費やされた方でした。

そのようなことから、お婆さんの悲しみは非常に激しいものでした。

「私のためにあの子は死んだんだ」「早く死にたい、早く死にたい」

と悲痛な叫びを繰り返されました。

お婆さんは顔を合わせる度に衰弱していかれます。正直、私にはかける言葉もありませんでした。私に出来ることは、供養のためにお経、それも『観音経』というお経をあげることだけでした。

『観音経』は、観世音菩薩が三十三の姿に変化して人々を救って下さることを説いたお経。

お婆さんは信仰心が篤く、普段から『観音経』を読誦しておられましたので、一緒に懸命にお経をあげました。

そんなある日、お婆さんと顔をあわせると、少し精気が戻っていました。そして、お婆さんはポツポツと話し始めました。

「私は娘が亡くなってから、毎日、娘の供養のために懸命に『観音経』をあげています。苦しいときに「妙法蓮華経観世音菩薩普門品…」(=『観音経』の題名)、哀しい時に「而為説法…」(=『観音経』の一節)と、何度も、何度も、一心不乱にお経をよみました。

けれど、顔をあげると娘がそこに立っているんです。それも悲しそうに…。私は涙が止まりませんでした。そしてまた『観音経』をあげ続けました。

そして昨夜のこと、『観音経』をあげながら、心の中で、〈観音様、どうか娘をお助け下さい、どうか娘をお助け下さい〉と願っていました。そしてふと気がついて顔を上げてみると、そこには娘ではなく観音様がお立ちになっておられました。

それはそれは神々しい姿でした。一瞬娘はどこに行ったのかと思いましたが、観音様の後ろに隠れているのがわかりました。それからは観音様が娘の代わりに現われるのです」と。

私はその話を聞き終った後、しばらく沈黙をおいてそのお婆さんに尋ねました。

「お婆さん、その観音様は今どこにいますか?」と。

すると、お婆さんはしっかりと私の眼を見据えてこう言いました。

「ここです」と、そう言ってお婆さんは自分の胸を指さしました。

皆さんはこの話を聞いてどう思いますか?

お婆さんは幻覚を見たのでしょうか?

いえ、お婆さんには確かに観音様が現前したのです。そして、お婆さんにとって、観音様は今も心の中にいて、娘さんを包んでおられるのです。それが信仰というものなのです。

お婆さんは、今は介護施設に入っておられます。そして今も元気です。

きっと、今も『観音経』をあげながら、観音様と一緒に生きておられることでしょう。


2006年12月17日 15:27 | コメント (0)

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コラム:心中の虎

中島敦に『山月記』という小説がある。

非常に有名なものではあるが、概略を述べると以下の通りである。

李徴という男がいた。役人として早くから出世したが、性質は狭量で、誇り高く傲慢であった。しかしその高慢さゆえ、上司におもねることを潔しとせず、早々に退官して詩作に耽っていた。しかし詩作では芽が出ず、次第に生活は困窮していく。

思いあまって再び官吏としての生活に戻るものの、すでに彼が見下していた同輩が遙か高位にすすみ、それがまた彼を苦しめた。こうして李徴はある日、遂に発狂して行方をくらましてしまった。

翌年、李徴の旧友である袁惨(えんさん)が山野を歩いていた時、一匹の虎と出くわした。しかしその虎は袁惨に襲いかかるどころか、身を翻して草むらに隠れてしまった。実は、その虎は李徴のなれの果てだったのである。

虎の姿となった袁惨は、李徴と旧交を暖めるものの、自らの姿を恥じ入り決して姿を見せようとしない。李徴は、身体は虎であったが、心の全てが虎に変質した訳ではなかったのだ。

李徴は自らに起こったこの事態を受け容れることが出来ず悶絶する。しかし、兎を見れば食し、人を見れば襲いかからざるを得なかった。しかし一旦人間の心に戻れば、激しい悔恨に襲われた。

そんな李徴には、たった一つ心残りなことがあった。それは、自らが作した漢詩が未だ世に出ていないことであった。

李徴は言う、
「(私には)今もなお記誦せるものが数十ある。これをわがために伝録して頂きたいのだ。…作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。」

こうして李徴は自らが作した漢詩をうたい上げた。袁惨はその出来に感心しながらも、どこか物足りなさも感じていた。

李徴は言う、
「何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない。人間であったとき、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。

もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心がなかったとは言わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。ともに、わが臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。己の珠に非ざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また己の珠なるべきを半ば信ずるゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。

己はしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。」

やがて李徴は悔恨の言葉を述べた後、虎の姿を遠目に袁惨に見せ、闇夜に咆哮して消え去った。

『山月記』の内容は以上の通りである。

稚拙な自尊心に苛まれ、自らの才に臆病なあまり、人に屈することが出来ない人を、私は何人も知っている。また街に出れば、たくさんの猛獣を隠した人間を目の当たりにする。

また人との会話の中で、浅学非才な自らに虚栄心の萌芽を見てとり、その心中に潜んでいる猛獣の気配に、戦慄を覚える時もある。

そんな時、私はいつも李徴の、「己の珠に非ざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また己の珠なるべきを半ば信ずるゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった」という言葉を思い出す。

蛇足ではあるが、禅者はこう言う。

「高級役人で、たくさん書物を読んでいる人は無明が多く、あまり書物を読んでいない人は無明がわずかです。役人として栄達しない人が我執が少なく、役人として栄達する人は我執がうんとあります。おれは聡明で利巧なんだと自分で言いますが、わずかでも利害にかかわることとなると、聡明もかくれ、利巧もかくれ、平生読んでいる書物の一字も役に立ちません。それは学問の習い初めから間違っていて、富貴をかち取ろうとばかりするからです。しかも富貴をかち取る人がはたして何人あるでしょうか。ぜひ志向をクルリとかえて、おのが脚下に向っておしきわめなさい。わがこの富貴をかち取るものはどこから来るのか、いま富貴を受けているものは後日どこに行くのか。」(『大慧書』荒木見悟訳)

こうして禅者は自らに巣くう猛獣を端的に見つめて深く反省し、猛獣を飼い慣らし、やがては消し去ることを要求するのである。

虎に呑み込まれてからでは遅いのである。

2006年12月02日 19:06 | コメント (0)

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コラム:硯箱

晋山式に前後して、諸方より様々な贈り物を頂きました。そのひとつひとつに贈って頂いた方の気持ちがこもっていて、本当にうれしく、また有り難く感じております。

今朝もひとつ、東京のお寺のご住職様から贈り物を頂戴いたしました。包みを開いてみますと、中には東信濃の伝統工芸である軽井沢彫の立派な硯箱が入っていました。

早速お礼の電話をいたしますと、その和尚様から次のようなお話を聞かせて頂きました。

「僕が住職になった時、硯箱が無くて海苔の空き缶を硯箱代わりに使っていたんだ。けれど、ある時、それを見た近くの和尚さんに怒られちゃって…。

〈お葬式の時にはお位牌にお戒名を書かないといけないだろう。住職が筆をとるのは壇信徒の方の為だ。それなのに、そんな粗末なものを使っていてどうするんだ。〉って。

それですぐに硯箱を買いに行ったんだ。君はそんなことは無いだろうけど、昔のことを思い出して君に贈ろうと思ったんだ。」

私は恥ずかしくなりました。ご多分に漏れず、私の使う硯は机の上に裸で置いたままで埃がかぶっています。筆はボールペンなどに混じって筆立てに立てているだけです。

筆使いは閑栖(かんせい)和尚(=先住職のこと)の方が良いので、これまで筆を使う機会があれば、ほとんど閑栖和尚が筆をとっていました。

それを言い訳にして、キチンと道具を揃えず、またその扱いも非常に乱雑なものでした。

先に日本一になった日本ハムファイターズの新庄選手は、プロの選手になった時に買ったグローブを、大切に15年以上も修理しながら使っていたそうです。だからこそ、あんなに素晴らしいプレーをすることが出来るのでしょう。

道具を粗末に扱う人は、その程度の仕事しか出来ないことでしょう。事実、私の筆はひどいものです。

道具は自分のものではありますが、例えば野球選手にとっては観客に良いプレーを見せるのためのもの、住職にとっては壇信徒のために心をこめた字を揮毫するためのものでもあったのです。

そんな大切なことを、一つの硯箱から教えて頂きました。

この硯箱は、きっと私の一生の宝物になることでしょう。

2006年11月01日 14:49 | コメント (0)

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コラム(12):晋山式(しんざんしき)・新住職挨拶

去る10月8日、当山開創750年法要、菩提達磨大師像帰山法要、第18世宗紹和尚退山式(住職引退の儀)、第19世宗玄和尚晋山式(住職就任の儀)が執り行われました。

当日は前日までの曇天からうって変わって雲一つ無い秋晴れ。大勢の参列者が見守る中、記念の儀式が厳かに執り行われました。

当山順心寺は、康元元年(1256)、法燈国師(ほっとうこくし)無本覚心(むほんかくしん)禅師によってこの地に開かれました。それから今年でちょうど750年目にあたります。そこで、開山国師がお亡くなりになられた10月13日に合わせて、その直前の日曜日に記念の法要を営むことになりました。

また達磨像は、江戸時代から、数百年もの長きにわたって当山や壇信徒の皆様をお守り下さっておりました。しかし、戦災によって伽藍の一切を失った当山では達磨像を守り抜くことが出来ず、やむなく神戸、ついで京都の寺院に預かって頂いておりました。

しかし、開創750年を迎えるというこの慶事に合わせ、京都の寺院のご住職のご厚情により、当山にお帰り頂くことになりました。

午前9時半、太鼓の音に合わせ、導師である前祥福寺僧堂師家・現龍門寺大衆禅道場師家、河野太通老大師をはじめ、50名以上の和尚様方の入堂により儀式は始まりました。

厳かに開山国師に、お湯、ご飯、お菓子、お茶、香典をお供えし、老大師の香語が高らかに唱えられて読経が始まりました。次いで、達磨様にも同様の手順で供養が行なわれました。

そうして中座を挟んで第18世宗紹和尚の退山式。

宗紹和尚は、戦後まもなく先代宗寛和尚の後を承けて当山の住職となりました。しかし、当時は未だバラック一つの荒廃した状態…、現在の伽藍の一切を創りあげたのは全て宗紹和尚の時代です。
その苦労は並大抵のものではありませんでした。

それから50年。宗紹和尚も既に80に手が届く齢となり、この節目の年に、住職の座を退くこととなりました。

続いて、山門を通って本堂の下で待つ新住職の晋山式に移りました。

新住職は、住職に就任するにあたっての決意をまとめた香語を唱えた後、世の中の太平を祈り、開山様にご挨拶をし、そうして当山と壇信徒の無事を祈りました。

その後、住職辞令を拝受し、妙心寺派・教学部長様より祝辞を賜りました。

2時間ほどの諸法要は、こうして無事に幕を閉じました。

儀式の後は、甲子園球場横の「ノボテル甲子園」に場所を移して祝宴会が開かれました。

祝宴会では、法要導師をお勤め下さいました、河野太通老大師、前花園大学学長・西村惠信師、本堂の改修を受け持って頂きました、中島工務店社長・中島紀于様、壇信徒代表として、東洋アルミニウム株式会社相談役・小南一郎様、花園大学教授・安永祖堂老大師から、それぞれ有り難いお言葉を頂戴致しました。

また、ご参加の皆様からは、先住職へはねぎらいの言葉を、新住職へはたくさんの叱咤激励の言葉を賜りました。

祝辞を頂いた方はもとより、ご参加頂いた皆様には心からお礼申し上げます。誠に有り難うございました。


【新住職からのご挨拶】
 
この度、第18世宗紹和尚の後をうけ、不肖宗玄が、当山順心寺の住職に就任することとなりました。

私は当山で生まれ、大学を出た後は京都の嵐山、天龍寺僧堂で修行の後、当山に戻って副住職の任に就いて既に10年が過ぎました。しかし、勿体なくも、当山が開創750年を迎える節目の年に、住職の大任を受けることになり、誠に身の引き締まる思いです。

思えば、先住職、宗紹和尚の代は苦労の連続でした。宗紹和尚が住職になった頃、当山は戦災によって伽藍の一切が失われ、また復興の資金さえ無い、全く先の見えない状態でした。

そのような状態の中で住職の任を引き受けるということは、宗紹和尚にとっては、まさに火中の栗を拾うような思いであったと思われます。

しかし宗紹和尚は、瞬く間に伽藍の一切を整備し、順心寺を妙心寺派の中でも上位の寺格を有する名刹に引き立てました。その功績は、歴代住職の中でも随一であったといっても過言ではありません。

幸い宗紹和尚、退山してなおカクシャクとしております。引続き皆様に元気な顔をお見せする機会も多いことでしょう。

さて、今後の50年は、宗教界にとっても厳しい時代となることが予想されます。そんな時代にあって、順心寺は如何なる道をすすむべきか、また壇信徒の皆様のお気持ちに、如何にして応えるべきか、問題は山積しております。

宗紹和尚に比べ、不肖宗玄は浅学非才の上に、未熟者でございます。果してこのような難局に立ち向かえるかどうか、甚だ心許なくも思っております。

しかし、いったん住職の任を引き受けた以上、壇信徒の皆様のために、順心寺のために、鋭意専心つとめさせて頂く所存でございます。

何卒、今後とも先住職の時代と変わらぬご法愛を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

当山19世 宗玄合掌

式の様子はこちらのギャラリーでご覧になれます。
順心寺Web - Gallery "第十九世宗玄和尚晋山式"

2006年10月21日 16:32 | コメント (0)

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コラム(11):お地蔵さま

 当山2  022.jpg

8月24日は地蔵盆です。

この時期、街角のお地蔵さまの周囲には提灯がぶら下げられ、子供連れの親子で賑わいます。とても心温まる光景です。

【お地蔵さまについて】

そもそもお地蔵さまは、「地蔵菩薩」と言って、「大地を包み込む」という意味を持つ菩薩(修行者)のことです。

地蔵菩薩の本来のお役目は、お釈迦さまがお亡くなりになって以後、弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に現われて人々をお救いになる迄の間、六道*に輪廻して苦しむあらゆる人々を救済することです。

*六道=すべての衆生が生死を繰り返す六つの世界。迷いのない浄土に対して、まだ迷いのある世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。前の三つを三悪道、あとの三つを三善道という。 (大辞林より)

つまり、お地蔵さまは、人間界だけではなく、あの世に到るまでのあらゆるところに出現して、苦痛にあえぐ人々を分け隔てなく救済する存在なのです。だから、お地蔵さまは街角のあちこちに建てられて、我々をお守りになっておられるのです。

しかし、お地蔵さまは、我が国では特に、子供をお守りになる存在と信じられています。

お地蔵さまには多くよだれかけがかけられています。それは、子供を亡くした母親が、我が子の匂いの染みついたよだれかけをかけて、賽の河原で迷っている我が子を見つけ出し、善処へ導いて下さるようにとお祈りをするからです。

これはよだれかけに限りません。時には帽子やマフラーを掛けられたお地蔵さまも目にしますが、それは同様の想いからです。

「地蔵和讃」と呼ばれる歌に、「一重積んでは父のため、二重積んでは母さまと、三重積んでは古里の、残る兄弟わがためと、紅葉のような手を合わせ、礼拝廻向ぞしおらしや…」とありますが、子の親を思う気持ち、親の子を思う気持ちを思うと、この「地蔵和讃」の一節は、涙無くしては読むことは出来ないでしょう。

暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も、街角にあって我々を見つめるお地蔵さまを見る度、そのありがたさに胸が熱くなり、手を合わせたくなります。本当に、お地蔵さまは、なんとありがたいほとけさまなのでしょう。

【地蔵盆】

さて、そのような信仰を持つお地蔵さまですが、阪神大震災以前には、写真の当山の地蔵堂でも「地蔵盆」が開かれていました。中心となっていたのは商店街の方々です。

幼い頃の私も、境内全体に吊された提灯の中から、自分の名前を記された提灯を見つけて、とても嬉しく思ったことを思い出します。また地域の子供にだけ配られるお菓子袋は、格別の宝物でもありました。

しかし、残念ながら、阪神大震災の時に、提灯を管理していたお婆さんのお宅も全壊し、提灯もボロボロになってしまい、地蔵盆を開くことが出来なくなってしまいました。また、それを受け継ぐ若い方もいませんでした。

この地蔵堂だけではなく、当山には他に「天下泰平」と記された「手引地蔵」が山門の横に佇んでいます。江戸時代の建立ですが、おそらくは世の中が乱れていた時に西宮の町民をお救い下さるようにとの願いを込めて建立されたのでしょう。

皮肉にも、震災以後、西宮界隈にはマンションが建ち並び、子供の姿を多く見かけるようになりました。事実、当山の近くにある浜脇小学校では、教室の数が不足してグラウンドにプレハブの臨時校舎が建てられています。

しかし、この近隣には当山のお地蔵さましかありません。

近隣の子供の健やかな生育を祈る為にも、是非とも当山の地蔵盆も復活させたいと、切に願っています。

そして、それにより、地域の子供を守るという意識がより強くなれば、とも願っています。そういった大人の目こそが、子供を事件や事故から守る第一歩であるとも思うのです。


我々大人が、お地蔵さまの目を通して子供を見ること―、それが実は街角に立つお地蔵さまの本当の役目であると、そう思います。

子供にとってのお地蔵さまとは、実は我々大人一人一人に他ならないのです。

2006年08月21日 16:36 | コメント (0)

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コラム(10):お盆

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8月はお盆の月です。

お盆の正式な呼び方は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいます。

 お釈迦さまの弟子の中で特に優秀な弟子十人を「釈迦十大弟子」といいますが、その中に神通第一といわれる目連尊者といわれる方がいました。 「神通」とは、いろいろなものを見通せる力のことです。その能力に秀でた方のことを「神通第一」というのです。

 その目連尊者が、ある時、亡くなった母親のことが気にかかり、神通力でその往く先をうかがったところ、なんと母親は地獄で餓鬼になって苦しんでいました。

 餓鬼とは悪業の報いとして飢えに苦しむ鬼のことです。その姿はやせ細って喉が細く針の孔のようで飲食が出来ないうえに物を食べようとすると、その食べ物は口元にくるとたちまちに燃え上がってしまうのです。

 目連は手を差し伸べて母親をその火の苦しみから救おうとしますが、かえって火に油を注ぐように火の勢いが強くなり、母親を余計に苦しめてしまうのでした。

 目連は思いあまって師であるお釈迦さまに母親を救う方法を乞いました。そうするとお釈迦様は深く悲しまれ、目連にこう指示しました。

「お前の母親を助けるには多くのお坊さんの力を借りなければならない。お坊さんの修行期間の終わる7月15日に、『百味の飲食五薬』を供養すれば、お母さんを助けることが出来よう。」

 この話は『仏説盂蘭盆経』という経典に出ているお話です。このお話によってお盆の行事が行われるようになりました。日本では推古天皇の時代606年に寺ごとに斎会を設けたのがはじまりといわれています。

 では何故目連の母親は地獄に堕ちて餓鬼の苦しみを受けるようになったのでしょうか?

 目連の母親は資産家で、沢山の資産をもっていました。目連は、出家するにあたって、全ての財産を貧しい者に施すように母を諭しましたが、母親は我が子である目連にその財産を残すために目連の諭しに耳を貸しませんでした。

 この行為は母の愛から生じた行為ではありますが、母の目蓮への愛は「溺愛」と呼ぶべき行為でもあるのです。この悪業によって、母親は餓鬼道に堕ちたのです。自らへの愛が母を地獄へ陥れる結果となったのです。目蓮の苦しみは如何ばかりでありましょう。


(我々の心が仏であること)  
 私たちは、毎日何気なく過ごし、少しも他人の世話になっていない、迷惑をかけていないと思いがちです。しかし現在の私がここにいるのは、おびただしい数の父母、両親があっての結果で、その一つが欠けても今ここにはいないのです。まさしくご先祖があってこそ今の私がいるのです。親や先祖は、かわいい我が子のために、目連の母親のような罪を犯していたかもしれません。人間はなにかしらの罪を犯しながら生きているのです。

 そのような親や先祖の苦労や苦しみを忘れて生きていることも又、悪業の一つといえないでしょうか。その時に人間は知らず知らずの内に地獄にあるのです。そう考えると恐ろしくなります。お盆に供養するのはご先祖のためにあるだけではなく、今、地獄にいるかもしれない自分を振り返るためにもあるのです。
 
 江戸時代に五百年来不出と言われる名僧であった白隠和尚というお坊さんがいました。その方の所にある武士がやってきて地獄と極楽の在処を尋ねました。すると白隠和尚は、その武士にむかって、

「そんなことを心配するなんて、なんというヘナチョコ侍じゃ。」

と一喝しました。その武士は、それを聞いてカッとして腰の刀を抜き白隠和尚に向かって刀を振り上げました。すると白隠和尚は、

「それ、そこが地獄じゃ。」 

はっと気付いた武士は自分の非礼に青ざめ、ひれふして、

「和尚さま、どうか私の非礼をお許し下さい。」

といって詫びました。すると白隠和尚は、

「それ、そこが極楽じゃ。」

と言ったそうです。

 地獄はあの世にあるのではなく、自分の心の中にもあるのです。ひょっとして、あなたも地獄の中にいながら気付かずにいるのではないですか。他人を憎む心、羨む心、過大な自尊心、全て地獄への入り口なのです。地獄への入り口は時と場所を選ばず、いつでもポッカリと口を開けて待っているのです。お気を付け下さい。

 では極楽への入り口は何処にあるのでしょうか?自らの言動を反省する心、これが極楽への入り口なのです。極楽への入り口もまた時と場所を選ばすにあなたを招き入れるのです。 

 あなたの家にあるお仏壇の中で微笑んでいる仏様の姿、これがあなたの本当の心なのです。皆さんの心の中全てに仏様がいらっしゃるのです。それに気付いて下さい。もし、分からなければ、心を落ち着けて、お仏壇の中の仏様を静かにご覧になり、仏様に向かって静かに手を合わせて下さい。そうすれば心が爽やかになるのに気付きませんか。それがあなたの「仏の心」なのです。

 しかし、普段我々は様々な妄想に引きずられて「仏の心」を見失っているのです。それこそが地獄なのです。
 
  お盆のお参りにまいりますのは、皆さんのご家族のどなたかが亡くなられ、そのお供養のためです。その方はご両親かも知れませんし、ご兄弟かもしれませんし、また、ご主人や奥さんかもしれません。ましてや可愛い我が子ともなれば、悲しみもひとしおでしょう。心中お察しいたします。

 仏教では、四十九日が過ぎるまでの死者を「霊」といい、四十九日が過ぎた、成仏をした死者を「仏」と呼びます。

 では、その亡くなられたご家族は今一体どこにいらっしゃいますか?決して遠く離れた黄泉の国にいるのではありません。皆さんが愛された今は亡きご家族も、全てあなたの心の中で安らいでおられるのです。

 あなたが怒りにうち震える時、あなたの今は亡きご家族はその怒りの劫火に包まれているのです。あなたが貪りの心にとらわれた時、あなたの愛したご家族はその貪りのために餓鬼となって空腹にのたうち回っているです。恐ろしいことです。そしてそのことに気付くこと、これが成仏への道なのです。

 『仏説盂蘭盆経』には、目蓮が僧侶に供養をすることによって、苦しみが除かれた様子を次のように述べています。

「その時、目蓮やその他多くのこの法要に参加している僧侶達の皆が大いに歓喜し、目蓮の嘆き苦しむ声は忽然として除かれた。そして、同時に目蓮の母も、無量の苦しみから脱することが出来たのである。」

 目蓮が自らの存在そのものが母を悪業に陥れたことに気付き、そして、その迷いと苦しみから自らが脱した時、同時に母も地獄の苦しみから逃れることが出来たのです。

お盆とは本来このような意味なのです。

 ご先祖の恩に対して感謝し、自分の行いを振り返るのがお盆です。静かに手を合わせて、あの世にいるご先祖さまのご冥福を祈ると同時に、自分の心の中のご先祖さまの恩にも感謝をしましょう。そうすることによって、お亡くなりになられたあの人が、心の中で微笑んでおられるのにお気付きになるでしょう。

2006年07月31日 22:59 | コメント (0)

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コラム(8):達磨と達摩

②改修2006.5.20 018.jpg

禅宗の開祖は、菩提達磨(ぼだいだるま)大師です。

「菩提」とは「悟り」、「達磨」とは「教え」という意味であり、達磨様はフルネームで「悟りの教え」という有難い意味を持つことになる。

では達磨様はどんな人であったのか?達磨に関する記述として最古のものである『洛陽伽藍記』によれば次の通りである。

「その頃、西域の沙門で菩提達磨というものがいた。ペルシャから来た外国人である。はるかな辺境の果てから我国(中国)にやって来て、永寧寺の塔の金盤が日に輝き、屋根の上の宝鐸が風に揺られて鳴るのを見て、〈私は150歳であり、これまで諸国を漫遊して様々な塔を見たが、これ程に美しい塔は見たことが無い〉と言い、口に〈南無〉と唱え合掌すること連日であった」。

『洛陽伽藍記』は寺院の由来を記すことを目的とした書物であるので、そこに見える達磨に関する記述はつとめて簡潔である。しかし、ここで言う達磨が、禅宗の開祖としての達磨かどうか定かではない。

達磨の伝記がまとまって見えるのは『続高僧伝』の「菩提達摩」章である。注意すべきは、ここでは、現在一般に通用している「達磨」では無く「達摩」と表記されている点である。

しかし、『続高僧伝』の記述は、達摩の弟子であった曇林による、『二入四行論』の序文によっていたことが、本書が敦煌の莫高窟から発見されたことで明らかとなった。そこに見える達摩の伝記は以下の通りである。

「達摩は南天竺国(南インド)の第三王子であり、幼い頃より非常に聡明であり、出家して修行に励み、真理に通暁していた。海外の国々における仏教の衰えを嘆き、はるかに海山を越え、中国にやって来た。しかし、古い教えにとらわれた人々は達摩の新しい教えを悪し様に非難し、素直な人々は達摩の教えに心酔した。達摩には道育と慧可という二人の弟子があり、彼らに四つの実践の仕方を教えた。それはつまるところ、安心の法であり、その安心の法とは〈壁観〉というものであった」。

この記述は達摩の伝記としては最も古い。故に現在では最も信頼に足るものとされる。

一体、ダルマに関する古い記述は「達摩」と表記し、「達磨」とするものはない。現在の「達磨」で固定されるようになったのは、遙かに500年後、禅宗教団が確立した後のことである。

『景徳伝燈録』という、禅宗の歴史を記した書はその代表である。そこでの達磨の伝記の概略は以下の通りである。

「南インドより海路はるばる中国に来て、梁の武帝という皇帝と問答を繰返し、武帝の学問仏教を嫌って華北に去って嵩山少林寺に入って独り黙々と坐禅に励んだ。その時、慧可という者がやって来て片一方の腕を斬って達磨に指しだしてその誠意を示したので、遂に達磨は弟子とした。
達磨の教えは古い考えにとらわれた人々から非難を受け、毒を盛られること六度であったが、吐き出して難を逃れた。しかし最後に達磨は、慧可という優れた弟子を得たことに満足し、遂にその毒を吐き出さず、自ら死を選んだ。それは西暦495年10月5日のことであった。達磨の遺骸は熊耳山に葬られた」。

こうして達磨は亡くなった。しかし後日譚がある。同じく『伝燈録』を見てみたい。

「達磨が亡くなってから、熊耳山から遠く離れた葱嶺で、宋雲という人物が達磨と出逢った。その時達磨は片足には靴を履いていたが、もう片方の足は素足であった。宋雲が疑って達磨の墓を掘り返した所、その棺の中には一隻の靴が転がっていただけだった。これによって達磨が聖人であったことを国を挙げて知ったのである」。

これは明らかに伝説である。ダルマは「達摩」として歴史書に登場し、この時期に至って「達磨」となって伝説化されることになった。

しかし、このような伝説はいわばまだ序の口である。

西宮市役所のある「六湛寺町」の町名のいわれとなった廃寺寺院、六湛寺の開山、虎関師錬(こかんしれん・1278-1346)が著した、日本最初の仏教史書『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)に、達磨に関する次のような逸話を載せる。

「菩提達磨は南インドの第三王子である。…我が国の推古21年(613)、達磨は日本へやって来た。推古天皇は聖徳太子に政治を任せていた。12月1日、太子は大和の片岡山を通り過ぎた。その時、達磨は乞食の姿となり、うらぶれた格好で道端で横になっていた。しかしその眼は鋭い光を発し、身体からは異香が漂っていた。太子は怪しんでその名を尋ねるも達磨は答えなかった。仕方なく太子は和歌を作って達磨に問いかけると、達磨はすぐに和歌を以てこれに答えた。太子は飲料・食料を与え、衣を脱いで、〈よく寝なさい〉と言って与えた。こうして太子は宮殿に帰ったものの、気になって使者を発して達磨を探させるように言った。戻った使者は〈あの乞食は既に死んでおります〉と答えた。太子は深く悲しみ、その場所に行って懇ろに達磨を葬った。数日たって、太子は侍者にこう言った、〈あの乞食はきっと聖人に違いない〉と。使者を出して棺桶を開いてみると、太子が与えた衣が一枚棺の上にあっただけでもぬけの殻だった。(以下略)」。

奈良県王寺には、現在も「片岡山達磨寺」という、この逸話に因んだ立派な禅宗寺院が残されている。

「達磨さん」と聞くと親しみ深い。しかし、真実の達摩に関しては不明な点が多い。「達摩」が禅宗の開祖として、後世立派な伝記と共に沢山の伝説の衣を着せられて「達磨」となった。

さらに日本にやって来た達磨は、聖徳太子と邂逅を果たし、やがて親しみ深い「達磨さん」として真っ赤に塗られて手足が無くなり、眼も無くなって「福ダルマ」となった。

さて、今、『ダビンチコード』という小説と映画をめぐって、キリストに子供がいたとかいないとかで侃々諤々である。キリストに子供がいようがいまいが我々が知るキリスト様に何ら変わりは無い。

「達摩」は、伝説化されて「達磨」となり、やがて手足を無くされ、眼も無くなって、真っ赤に塗られても、政治家に選挙で勝ったと墨で目を書きこまれても、一向に気にしない。


そちらの方が、なんだか清々しくはないだろうか?

2006年05月23日 15:10 | コメント (0)

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コラム(7):天上天下唯我独尊

改修2006.4 0012.jpg4月8日は釈迦様の誕生日です。

お釈迦様のお誕生日を「花祭り」と言って、各寺院では生れたばかりのお釈迦様の像に甘茶をかけて祝います。

そもそも、お釈迦さまは、紀元前500年前後にお生まれになったとされています。お釈迦さまの本名は「ゴータマ・シッダルタ」、何故に皆な「お釈迦さま」というのかと言えば、釈迦族の王子であったからです。

お釈迦様のことを「仏陀(ブッダ)」とも言いますが、これは「覚ったひと」という意味で、仏教の真理をお悟りになった後の呼び名ということになります。

お釈迦様は、釈迦国の王である浄飯王と、摩耶夫人との間に生まれました。

お釈迦さまのご生誕は多分に伝説的です。

ある夜、摩耶夫人がお休みになっていますと、右脇から六本の牙を持った白い象が身体の中に入って来る夢をご覧になったそうです。インドでは「象」は神聖な動物ですから、この夢は尊い人物が生れてくるという夢告ですね。

それから十月十日、摩耶夫人がご出産のためにご夫人の里であるコーリヤ国へお帰りになるその途中、真っ赤に花が咲き乱れる「ルンビニーの園」で一休みし、沐浴して身体を清め、アソーカの枝を手折ろうとしたその瞬間、右脇からお釈迦様がお生まれになったそうです。それが4月8日なのです。

摩耶夫人の右脇からお生まれになったお釈迦様は、生まれてすぐ悠然と七歩歩み、一指は天を指さし、一指は地を指さして、「天上天下唯我独尊」と高らかに宣せられたそうです。

お釈迦さまが、そのように天下に自らの誕生の宣言をなされた後、仏教の二大護法神である「梵天」・「帝釈天」が、天から降りてきて、それぞれ釈迦の左右に侍立し、その間を、「那陀龍王」と「跋那陀龍王」という二人の龍王が、清浄な甘露水をお釈迦様に注ぎかけました。

それが、現在の「降誕会」で、小さなお釈迦さまの像に甘茶を注いでお釈迦さまのご生誕を祝う「花祭り」の儀式のいわれです。

ではお釈迦様がお生まれになった時に発せられたという「天上天下唯我独尊」とは一体どういう意味なのでしょうか?

 「天上天下唯我独尊」ということは、「天の上にも、この地上にも、私一人が尊い存在である」という意味です。聞きようによっては大変に傲慢な言葉であるようですが、当然のことながら、お釈迦様が生誕直後に七歩歩いてこのように述べられたということは無かったでしょう。

これは後の時代に、仏教教団が成立していく過程において、お釈迦様を神格化するために作りあげられた伝説でしょう。生れたばかりの赤ん坊が流暢に話し出す筈はありません。しかし、この赤ん坊の「オギャー」という泣き声が、実はお釈迦様の「天上天下唯我独尊」という言葉の意味なのです。

 「オギャー」という泣き声をあげている赤ん坊は、この世にたった一人の人間です。そんな只一人の人間の叫びは、何物にも代え難い、誠に尊いものと言えるでしょう。これこそが命の尊さです。しかも、何の欲望も無い、全く無垢で、無念無心なる赤ん坊の産声は、その命の尊さを感じさせる、まさしく象徴的なものであると言えましょう。

確かにお釈迦様は偉大なるが故に、お誕生日を世界中でお祝いして頂けるのでしょうが、お釈迦様とて一人の人間。人間であるという点では、皆な同じです。そして、どんな人間も、「オギャー」、つまり、「天上天下唯我独尊」と高らかに歌い上げてこの世に現れ出たのです。

それが広がると、この世に生を受けた動植物の一切が悉く皆な「唯我独尊」であるとも言えるでしょう。誠に「柳は緑、花は紅」の境涯です。

柳は緑のままで美しく、花は紅のままで美しい。今ちょうど咲き誇る桜は、まさに燃え上がるように華やかですが、その一方で、桜の根元にひっそりと咲く一本の雑草もまた、時と所を同じくして命を謳歌しているのです。その両者に違いはありません。この世に存在する全てのもの、森羅万象は、それぞれ固有の姿、生き方をもっていながら、それぞれが関係を持ちながら存在しています。そして、それぞれの個性を力一杯に生かすところに真の調和があり、それこそが仏国土なのです。 

男と女、サラリーマンと自営業、この世には五万と立場が存在していますが、それぞれ立場は違っても、各々その分に応じ、その立場において、皆なその特色を発揮し、自己をくらまさない所、これがこそが「唯我独尊」の面目躍如のところです。

女性は女性としてその働きに応じて動けば良いし、男性は男性として懸命に働けばいい。お勤めの方は勤め人として、僧侶は僧侶として、社長は社長として、課長は課長として働けばいい。それぞれ立場が違うだけで、根底は「唯我独尊」です。

その立場を超えて、他の立場をうらやむから妬みや嫉みが生じるのです。人は皆なそれぞれの立場で一生懸命に頑張ればいい、ただそれだけです。生まれた時を考えて下さい。皆な裸ん坊で泣き声を上げながら生まれてきたのです。死ぬ時を考えて下さい。皆な平等に腰が痛い、膝が痛いと言って年を取り、皆な平等に死んで行きます。人の生には根底に「死」が流れているんですね。

死すべき自らに執着する、これが苦を生みだします。ところが、このままだと単なる虚無主義、厭世主義に陥ってしまいます。死すべき運命にあるからこそ、大切に生きなければならないんですね。一生懸命に生きねばならない。命の尊厳とはこのようなことを言うのでしょう。 

こうしたこと全てが、このお釈迦様の「天上天下唯我独尊」という言葉に集約されているのです。

2006年04月06日 17:47 | コメント (0)

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コラム(6):彼岸

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今日から春分の日をはさむ一週間はお彼岸です。

日本での彼岸の起源は古く、『日本後紀』第十三、大同元年(806)の条に、既に彼岸会が行なわれていたという記録が見えます。

春分・秋分の日を中日として彼岸が行なわれるのは、その日は太陽が真東から出て真西に沈むからで、その太陽が沈む場所こそが、阿弥陀仏のいらっしゃるお浄土です。つまり、お浄土のある場所を正しく見つめることの出来る日が彼岸の中日なのです。

因みに、我々が現在暮らしている世界のことを「此岸」、阿弥陀仏のいるお浄土を「彼岸」というので、この時期のことを彼岸と言うようになりました。

「彼岸」の本来の意味ですが、彼岸は梵語でparamita、漢語で「波羅蜜多」と訳します。有名な『般若心経』中に見える「摩訶般若波羅蜜多」の「波羅密多」がそれです。「波羅密多」は正式には「到彼岸」、つまり、涅槃寂静の世界に到達するということです。

さて、皆さんはお彼岸には亡くなったご家族が皆さんのお宅に帰って来る時期と思われているのではないですか?しかし、本当は、上記の通り、「此岸」にいる皆さんが「彼岸」を想う期間なのです。

お彼岸に涅槃寂静にいらっしゃるご家族を想い、御供養をすることは当然ですが、それと同時に皆さん自身が普段の生活を見直し、正しい生活を志すことも必要なのです。

そして、その方法は、①布施、②持戒、③忍辱、④精進、⑤禅定、⑥智慧、の六つです。この六つを「六波羅密」と言って、これは仏教を信じる人々の基本的な生活徳目です。

①の布施とは、見返りを期待しない贈り物のことです。これは金品の「布施」だけでは無く、身近な方に優しい言葉をかけてあげたり、笑顔で接する、といった行為も含みます。

②の持戒とは、仏教の戒律を守ることです。これは、次の五つです。まず、殺生をしないこと、第二に盗みをしないこと、第三に淫らな行為をしないこと、第四に嘘をつかないこと、第五にお酒を飲まないこと、です。

③の忍辱とは、堪え忍ぶことです。例えば電車に乗っていて足を踏まれたとしても、カッとせずに我慢し、相手を許してあげることなどです。それに笑顔を返してあげることが出来れば、布施も実現しますね。

④の精進とは、努め励むことです。お仕事に就かれている方は怠惰な態度を改め、一心に仕事に励まねばなりません。

⑤の禅定とは、坐禅のことですが、実際に坐禅を組まなくても、心を静かに落ち着かせることだけでも結構です。

⑥の智慧とは、正しく事物の本質を見極める英知のことですが、先の五つを実践すれば、自然とこのような智慧は具わってくるでしょう。

どうですか?実践出来そうですか?

しかし、お彼岸を迎えるに当たって、普段の生活を見直し、このような六つの徳目のどれか一つだけでも実現出来るように、皆さんも努力しましょう。

それがお彼岸のもう一つの目的なのですよ。


2006年03月18日 13:58 | コメント (0)

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コラム(5):君子は財を愛す

昨日、時代の寵児とまで言われたライブドアの社長が逮捕されました。

今日もそのニュースでテレビも新聞も持ちきりです。

『禅林僧宝伝』巻11「洞山暁聡」章に、次のような言葉が見えます。

①「ある僧が問うた、〈かつて泗州の僧が揚州に現れたが、それは何故か?〉洞山がやって来て、別の修行僧にこのように答えさせた、〈君子は財を愛す。(されど)之を取るに道有り〉と」。

この「君子愛財、取之有道」という言葉は有名なものです。

これは従来『論語』の中の言葉と言われておりますが、『論語』の中に、そのままの言葉は見えません。「里仁第四」に、「富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、処(お)らざるなり(富と貴い身分とはこれはだれでもほしがるものだ。しかしそれ相当の方法(正しい勤勉や高潔な人格)で得たのでなければ、そこに安住しない)」(金谷治『論語』岩波文庫・p.53)とあるのをまとめたものと思えます。

さて、①の引用文だけでは曖昧にすぎて今ひとつ理解しかねますが、次の『宋高僧伝』巻18「唐泗州僧伽」章を見ればはっきりします。

②「僧伽(という僧)が晋稜を訪れた時、国祥寺という由緒のある寺院が荒廃しているのを見た。万歳通天年間(696-7)に、僧伽は岸辺から准河を進む一船を呼んで言った、〈汝に財あり。吾に施さば刑獄を寛(ゆる)くすべし。汝の載せる所は剽略(ぬすんで)して得たるのみ〉と。盗賊は言うままに全てを僧伽に与えた。こうして仏殿が成った。後に獄に拘留された盗賊は、雲に乗って降りてきた僧伽が〈安心せよ〉と言って去った後、まもなく届いた政府からの赦免状のお陰で死刑を免れた」。

僧伽は観音菩薩の化身とも言われた神異の僧であったと言います。今で言う超能力者でしょうか。

②を踏まえますと、①の問答の要旨は以下の通りとなります。

「揚州」というのは「江蘇省」のこと。「准河」は江蘇省を流れる河のこと。つまり、①の問答は、泗州の僧である僧伽がどうして江蘇省を訪れて盗賊を教え諭して金品を供養させ、その功徳によって罪を償わせたのか、ということになります。そして、それに対する洞山の回答が、「君子は財を愛す、(されど)之を取るに道有り」というものだったのです。

諸々述べて参りましたが、では、本題の「君子は財を愛す、之を取るに道有り」とはどういった意味なのでしょうか?前句だけを見れば、君子、つまり立派な人程お金は大好きだ!という意味になってしまいます。

しかし、後句の「之を取るに道有り」という言葉と併せて考えることによって、この言葉は全く異なった意味となります。つまり、徳の有る人はお金を愛する、しかし、徳の有る人はそれを手に入れるのに、「道」といったものがあるのだ、という意味になります。これは手に入れることだけを言うのでは無く、②からもその使い方までも含めた言葉であることは明白です。

また『大学』42にも、「財を生ずるに大道有り」という言葉が見えます。同じ様な意味ととって良いかと思います。


お金とは何でしょう?確かに重要なものです。特に資本主義社会である現在では、お金が無ければ何も出来ないと言っても過言では無いでしょう。しかし、それが全てでしょうか?

今回逮捕された堀江氏は、常々「お金で買えないものは無い!」と断言し、また「どうしてみんなお金を儲けようとしないの?ちょっと努力すればみんなお金持ちになれるじゃない」とも言っておりました。

その結果については言うまでもありません。

しかし、ここでは堀江氏の批判をするつもりはありません。むしろ、最近の風潮の象徴が堀江氏であったのではないか、ということが重要なのです。

最近、巷では「勝ち組」「負け組」という言葉が飛び交い、テレビでも、その所謂「勝ち組」の人物の生活が如何に豪奢であるかを、これでもかと持ち上げる番組が度々放送されています。

堀江氏がその代表格として、マスコミで扱われていたことは周知のことでしょう。

しかし、昨日来、その同じマスコミが、掌を返したかのように堀江氏批判を繰り広げています。

堀江氏も、そういった無定見なマスコミに作られ、躍らされた人物でもあります。彼自身、マスコミや株といった、いわば虚像を操って成り上がったつもりが、最後は自らが虚像に弄ばれることになったとは皮肉なものです。

最近では、人々がそういった虚像に憧れ、虚像が全てだと誤解するようになってはいないでしょうか?


先の1月17日で、阪神大震災から11年となりました。

あの1995年の1月17日も大変に冷たい朝でした。白い息に包まれながら、多くの人が逃げまどい、また多くの人が救助活動に一心不乱になっていたのを昨日のことのように思い出します。

11年が過ぎ、倒壊した建物の多くは再建され、投げ倒された阪神高速も建替えられ、今では何事も無かったかのように毎日多くの車で渋滞しております。

街の景色も様変わりし、当山の周りも高層マンションが建ち並び、古い家屋や商店は一掃されようとしております。

あの時、震災に襲われた地区では、水道が止まり、ガスが止まり、電気が止まり、人々の生活は数十年昔に戻ったかのようでした。そんな困窮した状況の中、皆一様に感じた筈です、

これまでの生活のなんと贅沢なものであったかを、そして、都市の構造というもののなんと脆弱なものかを。

バブルの頃、人々は豪華なものを求め、豪奢な暮らしを最善のものと誤解し、企業は土地を買い占めました。

しかし、バブルははじけ、人々は我に返ったかのように、あの頃の浮かれた風潮を反省した筈です。土地を買い占めた企業はその価値の低下に苦しめられ、倒産にまで至ったケースも稀ではありませんでした。

そもそも「価格」というのは相対的なものであって、虚像に過ぎません。

お金もまた人間が造り出した虚像に過ぎません。仏様の目から見れば全て平等です。市場価値などは物の価値とは本来何の関係もありません。

今一度、自らの生活を見直すべきでしょう。地震の時、皆、何も無い生活を体験し、今の生活を反省した筈です。そして、それが本当の地震対策であるとも言えるのではないでしょうか。

堀江氏も、今、拘置所の中で何も無い生活を体験していることでしょう。

そして痛感しているでしょう。暖房が無ければ何と寒いものか、自らの排便の何と汚く臭気に満ちたものであるかを。

彼にとって、今やお金は何の価値もありません。そして、お金で買えないものがあることを自覚しているに違いありません。

しかし、それが虚飾の無い、人が生きるということの本当の姿なのです。そのような存在であるからこそ、人は自らを、また他者を愛し、慈しむことが出来るのではないでしょうか。

そういったことを理解して初めて、人は欲を離れ、「道」に則ったお金の使い方が出来るようになることでしょう。

2006年01月22日 14:52 | コメント (0)

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謹賀新年

明けましておめでとうございます。

本年は当山順心寺にとって、開創750年となる節目の年となります。

当山の開創は康元元年(1256)年、鎌倉時代のことです。これまで廃絶の憂き目にあわず、護持することができましたことは、ひとえに壇信徒の皆様や地域の方々のお力によるものです。

今年の秋、10月8日(日)には、その大法要と、当山19世となる不肖宗玄の晋山(住職となるための儀式)、現住職宗紹和尚退山(住職を退くための儀式)の儀、並びに本堂改修の落慶法要、達磨大師木像の安座開眼供養も併修致します。

50年前の当山の開創700年は、戦後間もなくのことで、伽藍の一切を焼き尽くした当山では、とてもそのような儀式を行なう余裕などありませんでした。

また現住職宗紹和尚が住職となったのも、それと前後してのことでした。

したがって、当山でのこのような大規模な儀式は約100年振りのことです。

達磨様もそのような混乱の中、他の寺に遷ることとなりましたが、先日来お知らせしております通り、昨年御帰山頂きました。

戦後から既に60年が過ぎましたが、未だ当山にあっては戦後は終っていなかったと言えました。しかし、この大行事を無事終えることが出来てはじめて「戦後は終った」と当山でも言うことが出来るでしょう。

節目となる2006年、改めて襟を正して順心寺のために、また壇信徒の皆様のために、一同尽力させて頂く所存でございます。

本年も何卒よろしくお願い申上げますと共に、皆様のご多幸を祈念致しております。

2006年01月01日 00:00 | コメント (0)

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コラム:(4)器

人には器というものがある。

そんなことを物語った逸話に次のようなものがある。

「ある時、司馬頭陀という者が、(中国の)湖南省からやって来た。百丈和尚は、彼に次のように言った、〈わしは潙山[いさん]という山にある寺院の住職になろうと思うがどうであろうか?〉。…彼はこう答えた、〈潙山は非常に美しい山で、1500人もの修行者のいる大寺院です。しかし、和尚様が住職をする所ではありません〉。百丈和尚は尋ねました。〈どうしてか?〉。彼は答えた、〈和尚様は非常にお痩せになっております。一方潙山は大きく、また裕福な寺院です。それにもかかわらず、仮に和尚様が無理をして住職をなされば、修行者は1000人にも満たないものとなるでしょう〉」。

百丈は百丈懐海[ひゃくじょうえかい・749-814]といって、中国の唐代に活躍し、禅宗寺院の様々な規則をお作りなられた方です。そんな方ですから、非常に厳格で、また神経の細かい、几帳面な方でもあったのでしょう。そして、体格はやせ形、わかるような気が致します。

一方、潙山という寺院は、非常に大きく、また景色も良くて、修行者も沢山いる立派な寺院です。百丈ほどの僧侶ですから、たとえ大寺院である潙山であっても、役者に不足がある筈もありません。

しかし、司馬頭陀の答えは「ノー」でした。それは、「百丈に合っていないから」という理由でした。そして、選ばれたのは、百丈の弟子の霊祐でした。霊祐は恰幅のいい、大柄な方であったようです。

確かに、大きな組織のリーダーとなるような人物は、どこか鷹揚な所が無ければいけません。リーダーがあまりに几帳面過ぎると、却って下の人間にとっては息苦しく感じるものでしょう。

このように、いくら立派な人物であっても、向いていない場所にあってはその才能を生かし切ることが出来ないものです。人には「器」というものがあるからです。

問題は、そのことを本人が受け入れることが出来るかどうか、です。小さな「我」を優先すると、却って本人はおろか、組織全体にも悪い結果を導くこととなります。

近年、個性の重視が教育の場でも謳われております。しかし、人の器を無視して個性ばかり重視しても、却って本人も不幸になるのではないでしょうか?個性の重視ということと、わがままを混同してはいないでしょうか?

当人の器をまず見極めること、まずはこれが肝要でしょう。そして、本人も自らの器を真摯に見つめ、それを甘んじて受け入れることが大切です。そして、それが個性を十二分に発揮する結果をも導くこととなるのです。

百丈と潙山の話は、そんなことを我々に伝える逸話であると言えるでしょう。


2005年11月27日 18:27 | コメント (0)

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コラム:(3)躍動する生命 ーいのちをみつめ、こころをみつめるー 

中国の唐の時代、臨済義玄([りんざいぎげん]?-867)という一人の禅僧がいた。今日の臨済宗の名は彼の名をうけてのもの。
彼の言動をまとめた書は、数ある禅宗の書の内で最もすぐれたものとの評価を受ける。

彼は次のように語る。

「この肉体には無位[むい]の真人[しんにん]がいて、常にお前達の顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!さあ見よ!」(入矢義高『臨済録』岩波文庫、p.21)。

ここに見える「無位の真人」とは、一般にいう「霊魂」などとは異なる、カタチを有しない生命そのもののこと。臨済は終始一貫してこの生命をみつめることを要求するのである。

また別の言葉を見よう。

「君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ」(同上書p.39)。

一見不思議なように感じるこの言葉。肉体が無ければ言葉も発することは出来ないし、ものを聞くことなど出来るはずもない。しかし真実に口をきき、ものを聞く本体は誰か?臨済はこの「本体」を見極めることを要求するのであるが、端的に言えばこれこそが生命そのもの。

一体生命の根源から発しない言葉は言葉と言えようか?心を打つのは生命の根源から発した言葉のみであろう。

臨済の説法の相手は常に具体的な生ま身の人間であって、切れば血の出る裸の人間そのもの。時に臨済はこの生命を「活溌溌地」[かっぱつぱっち]とも表現する。

「溌」はサンズイのかわりにサカナヘンを用いることもあるが、そちらの方がより具体的にこの生命の躍動性を表現する。ピチピチとはね回る魚の姿に生命を重ねるのだ。

禅はこのように生命の躍動性を自覚することを求める。

一般に坐禅は心を鎮め、何も考えない無心の境地に至ることを最上とするかのようにとられる。しかし、何も考えないのが最上であれば、人間は石ころになればよい。

一体本来カタチを有しないこころを改めて「無心」と表現すること自体すでに矛盾であるが、その矛盾こそが普段の人間の姿。

禅宗の開祖とされる菩提達磨[ぼだいだるま]は迷える弟子にこう言った。

「その迷う心をここに取り出せ。さすれば治療してやろう」。

まるで一休さんのとんちのよう。「屏風の中の虎を引き出せ。さすれば縄でひっとらえよう」と。

一休は一級の禅者。達磨のこの言葉をもとにして虎の問答が形成されたことは言うまでもなかろう。

すでにしてカタチの無い心をカタチのあるものと誤解して、人は苦悩に苛まれる。臨済も次のように言う。

「諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。……ほんものの修行者なら、決してそんなことはない。ただその時その時の在りようのままに宿業を消してゆき、なりゆきのままに着物を着て、歩きたければ歩く、坐りたければ坐る。修行の効果への期待はさらさらない。なぜかといえば、古人も言っている、『もしあれこれ計らいをして、成仏しようとしたならば、そういう仏こそは生死輪廻のでっかい引き金だ』と」(同上書p.41-42)。

心とはカタチ無きが故に様々なカタチとなって現われ出る。これこそが心の本質。カタチが有ると思い込んでいる、その「有る」を一つ一つ取り払っていった時、一体何が残るであろうか?それこそが生命のはたらきそのものであろう。

人は本来そのままで全てが具わっているのである。オギャーと生まれた時は全くの素っ裸。しかし既に人間に他ならないし、その無垢な姿はむしろ人の心を打つ。死んで行くときも焼かれてしまえば骨が残るだけ。しかし、それは嘘偽りの無い本当の姿。

それなのに、人は求め続ける。それこそが「欲望」に他ならない。「欲望」を無くしきれば、なりゆきのままに着物を着、歩きたければ歩き、坐りたければ坐るだけでよい。

しかし、その根底には、生命がキラキラと輝き、ピチピチとはね回っているのだ。

そんな生命の躍動性を自覚することを、臨済は1000年の昔に高らかに宣言したのである。それは生命の尊厳性を何よりも重視したことに他ならない。

臨済が生きていれば再び叫ぶであろう「いのちを見つめよう、こころを見つめよう」と。


あらゆる場面において、いのちの尊厳性が問われる今こそ。

2005年11月04日 18:06 | コメント (0)

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コラム:(2)「初心」 ー沼津・松蔭寺にて想うー

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 先日、所用で伊豆を訪れた折、少し足を伸ばして沼津の松蔭寺を参拝致しました。

 沼津は静岡県の東南部、伊豆半島の根元辺りに位置する町です。この沼津市の原町という東海道の宿場町に松蔭寺はあります。

 江戸時代の俗謡に次のようなものがあります。

 駿河にはすぎたるものが二つあり
      富士のお山に原の白隠

 実際、原町からは富士山がどこからもくっきりと見え、まるで富士山が我々を見下ろしているようです。この町に住む人にとって、富士山が特別な存在であろうことは想像に難くありません。
 そして、この町に住んだ人々にとって、富士山と並び称されるのが江戸時代の中期に活躍した白隠慧鶴禅師(1685~1768)なのです。白隠は日本臨済宗中興の祖として、臨済宗で最も有名な禅者の一人です。
 
 白隠はこの沼津の原町に生れ、松蔭寺を中心に活躍し、ここでその生を閉じます。

 白隠も富士山を愛した町民であった訳ですが、その白隠と富士山との因縁で、非常に興味深い逸話があります。

 富士山が休火山であることは周知の事実ですが、その富士山の噴火の中でも最大であったとされるのが、宝永4年(1707)、11月23日の大噴火でした。この時の噴火は、富士山の南東側山腹に宝永山が出来る程の激しさであったと言い、それは12月8日まで続いたと言います。

 この時、白隠は23歳、松蔭寺にありました。その『年譜』には次のように記されています。

松蔭寺の地面は大きく動き、お堂の屋根はその震動で大きな音をたてた。透鱗という兄弟子や同居している寺男達は、皆な庭に走り出てうずくまった。しかし、ただ白隠のみお堂に在って坐禅を続けた。白隠はその時、次のように心に誓っていた、「私がお悟りの眼を開くことが出来れば、あらゆる仏様が私をお守りになって、必ず災害から免れることが出来よう。しかしもし悟ることが出来なければ、瓦礫の下にあって死んでしまうに違いない」と。

 この時の噴火の激しさを知ると共に、白隠という一修行者の信念の強さを窺い知ることが出来る逸話です。何事も成し遂げるにあたっては、このような信念が不可欠です。

 禅の修行では、「信じる」ということを非常に重要視致します。信念が無ければ、どんなことも中途半端に終ってしまうことでしょう。

 『華厳経』という経典にも、「初めて発心する時、すでに悟りを得たのと同じである」と言っています。
 
 近年、「ニート」("Not in Employment, Education or Training"の略語)と言って、勉学に励まず、また定職にも就かずにいる若者のことが問題視されております。

 思うに、そんな若者達に欠けているのは、こんな「初心」ではないでしょうか?「初心」とは、何事にも礎となるものであると思えます。目先のことでは無く、こんな「初心」を生みだす環境をつくってあげることが、ニートの若者を増やさない第一歩であると、そんな風に思います。

 また定職に就いていても、その過程で様々な不安に駆られることもあるでしょう。そんな時、「信念」が確立していれば、きっと動じることは無いでしょう。

 あの雄大な富士山のように、どっしりと地に足をつけた生き方をするためにも、何事も「初心」が大事であると、今更乍らに感じます。


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2005年10月29日 15:50 | コメント (0)

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コラム:「ご挨拶」

この度、廣福山順心寺のホームページ、「順心寺Web」を開設いたしました。御覧下さり誠に有難うございます。

当山順心寺は、法燈国師によって、康元元年(1256)に開かれた禅宗・臨済宗の寺院です。その歴史は古く、2006年には開創750年目を迎えます。

法燈国師は無本覚心(1207-1298)と言い、また心地房との房号も持つ禅僧であります。その覚心が中国で禅を学んだ後、日本へ持ち帰った書に、『無門関』というものがあります。
『無門関』は、禅僧が行なう禅問答の、いわば問題集のようなもので、現在の禅僧もこれを重用し、禅の文献で最もポピュラーなものと言っても過言ではありません。

その序文に次のような言葉があります。

「仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作麼生〔そもさん〕か透らん」

(禅宗は)仏の説かれた言葉の心を宗旨とし、「無門」を入口の門とする。すでに「無門」という以上、ではどうやってその門を通りぬければ良いものか?

この言葉自体は、禅問答のことを言っていてより深い意味があるのですが、現実の場においては次のようにも解せるでしょう。

思うに、現在の街中でどこにでも目に付くものとは一体何でしょうか?それは、今ならコンビニでは無いでしょうか?

ではコンビニとお寺の数を比較した場合、一体どちらが多いと思われますか?あれだけ目に付くのですから、当然コンビニの方が多いのではないかと思われがちです。しかし、ある統計によれば、実際はコンビニ約40,000に対し、お寺はなんと約75,000もあるんですよ。

これだけの差があるのに、コンビニよりもお寺の方が目だたないのは、それだけお寺が街に馴染んでいるからでもあるのでしょう。しかし一方で、それだけ皆様に注目されていない証拠でもあるのではないでしょうか?

また注意して見てみると、そのお寺の内、一体どれだけのお寺が門を開放しているでしょうか?堅く門を閉ざしているお寺も多いのではないでしょうか?「無門を透る」とは言っても、現実の場では門を通りぬけなければ入りようがありません。しかし、門を閉ざしていれば、通りぬけようも入りようもありませんね。

当山順心寺は、開山禅師が将来した『無門関』のこの言葉を実践に移し、様々な活動を通して、広く皆様に門戸を広げて参りたいと思っております。

では、どうぞ「無門」の順心寺へお入り下さい。 

2005年09月26日 16:28 | コメント (0)